日本教の政教分離と信教の自由

日本人は、「和」とか「空気」とか「世間」とか「ケガレ」という概念に支配されていて、自分でも意識しないうちにそういう概念に基いて行動するということはよく言われている。これらは合理的には説明のつかないもので、精神の深い所をかなり強固に縛っているものであるので、宗教に限りなく近く、実際「日本教」という言葉もある。

しかし、教祖はいないし教義も戒律もテキストになってないので、日本教は宗教とはみなされていない。宗教とみなされてないから、日本教政教分離や信教の自由という原則の適用範囲外になる。

キリスト教の信者が熱心な信者の力で市長に当選して、市内の学校に聖書の講義の時間を作ったり、信者である職員を優遇したら大問題になるだろう。しかし、日本教の信者が熱心な信者の力で市長に当選して、学校で生徒に日本教の戒律を強制したり、日本教信仰の度合いで人事を行なっても問題にならない。

問題にならないというより、大半の政治家は日本教の信者で、日本教の暗黙の教義にはずれた言動を見せると問題になって落選したりする。企業においても、経営者と社員がほとんど日本教の信者であり、同じ信仰を持ってないと入社したり取引したりするのに困難である企業の方が多いだろう。

ヨーロッパにおける政教分離は、教会と国王の生臭い権力闘争という側面もあるが、同時に、何が世俗であって何が教義であるか哲学的につきつめて、ある程度は庶民のレベルまでそれを理解させたという意味もある。

日本において、日本教以外の宗教は外来のものであり、根が深くない。もともと社会に根付いていないものを分離するのは簡単だ。日本における政教分離とは日本教以外の宗教の影響力を政治から排除することであり、日本における信教の自由とは、日本教以外の宗教の信仰を強制されることがあってはならないという意味だ。

一番大きな信者をかかえる日本教を除外していいなら、どちらも簡単なことで、その意味では、政教分離についても信教の自由についても日本は優等生であると言えるだろう。

しかし、それはキリスト教国において、キリスト教を除外してキリスト教を特別扱いしたままで、政教分離や信教の自由を言うことに他ならない。イスラム教と仏教の扱いを同等にして、どちらもキリスト教の下に置くのと同じである。

自分の属する共同体のメンバーの大半が信じていて、儀礼や道徳といった日常生活を支配しているものについて、信仰と世俗生活を意識的に分離するのは容易なことではない。

たとえば、ホリエモン日本教の信者から見ると不快な部分をたくさん持っている。テレビで年長者と話す時等のふるまいが、標準的な日本人と随分違う。あれが自分にとって不快であるのは、道徳の問題なのか信仰の問題なのか、それを分離することが政教分離の為には必要となる。道徳の無い人間はそれを理由に批判しても良いが、信仰の無い人間に対してそれを理由に差別してはいけない。

ホリエモンのような(ふるまいを見せる)部下や友人に対して、同じ人間であるとしてそのふるまいを変えようとしないのが、信仰の自由だ。あるいは、そういう人に変えてほしいと思うことが、道徳の問題なのか信仰の問題なのか、それについて相手の合意を得るように努力することが信仰の自由を認めるということだ。

何らかの宗教に篤い信仰を持つ人が、他の文化の人と接する時には、おそらくそういう葛藤を経験しているのだろう。

ホリエモンが自分たちの大事にしてきたものを壊して踏み付けにしているように見えても、それは決して彼の悪意ではなくて信仰の違いであることを認めなくてはいけない。そして、彼にそれを尊重してほしいと思ったら、それを彼にわかるような言葉で説明しなくてはいけない。

かといって、ホリエモンが不快であるという自分の感覚を否定してしまうことは、自分の信仰を否定して相手のそれに迎合することであり、それは信仰の自由とは別の話になってしまう。ホリエモンを不快に感じる自分の感覚を大事にしながら、ホリエモンと関係を持ち続けることが信仰の自由を認める市民としての正しいあり方なのだ。

それはかなり面倒くさいことだと思う。しかし、複数の宗教の信者が混在している社会では、常にそれは行われてきたことである。道徳と信仰の境界線は簡単に確定できることではなくて、常に揺れ動いていて、揺れ動くなかで一つ一つ個別に自分の頭で考えなくてはいけないことだ。

「そういう奴は人間としてどうかしている、キリスト教信者以外は動物と同じだ」とか言ってしまう連中は馬鹿に思えるが、キリスト教日本教に置き換えて身近なレベルで考えると、そちらへ逃げたくなる気分も少しはわかってくる。

近代化とは、自分の日常生活から自分の信仰を意識化して分離していくことで、それは終わりの無いずっと続くプロセスである。日本教は宗教として独自の部分があり、それが政治や社会や経済を支配するやり方も独特だ。だから、そこからの脱却も借り物ではできない。

しかし、意識的な問い直しを巧妙に排除する仕組みがあるという点では、やはり宗教そのものだ。そこを見つめ直す時には、安全装置のロックをはずすことが必要であり、社会の中にも個人の中にも大きな葛藤と混乱が生まれ、多くの血を見ることになる。今、日本はそういうプロセスに入ったのだと思う。

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