量子的自己の脱・世間と脱・社会

これまで、松永さんのことについていろいろ書いてきたが、書けば書くほど混乱していく感じがしてきた。しかし、弾さんの404 Blog Not Found:量子自我(quantum ego)とは何かを補助線にしたら、ある程度スッキリと話がまとまりそうな気がする。

古典的自我と量子的自我

自分を把握しているかどうかはさておき、現代人は「自分」を「他人」とはっきり区別できるのだという前提に社会を組立てて来た。所有権という概念が成り立つためには、そもそも「誰」がはっきりしないことには文字通り「話にならない」。「自分のもの」は「他人のものではない」し、その逆もまた真なり。ここには確固たる排中律が存在する。

社会は、自我の位置が確定できるというフィクションを元にできあがっている。

たとえば、恋愛において、ある瞬間には私は彼女を愛していて、別の瞬間には愛してない。気持ちが揺れたり変わったりすることはある、つまり、時間の経過とともに愛が発生したり消滅したりすることはあるが、ある日の特定の瞬間においては、愛しているのか愛していないのか、どちらか一つに決められるというフィクションだ。

もちろん、恋愛小説の中では、特定の瞬間に愛と憎悪が同時に存在するというのもありふれたことである。ミクロの問題、個人の内面の問題や二人の関係としては、複数の状態を同時に保持するという量子的自我の存在も認識されてきたが、社会の中に二人を置く場合には、「あの二人はラブラブだ」と確定的に表現するのが慣例だ。

ところが、自我には波のような性質もあるのだ。私が何かをする。するとあなたが反応する。これをcommunicationと我々は呼んでいるが、これはある意味自我が共鳴を起こしているものと見なせないだろうか?

弾さんは、コミュニケーションの中に自我の量子的な性質を見て、そこから、経済の根本である「所有」という概念を問い直している。これには唸らされてしまったが、古典的な社会では問題にならなかった(意図的に隠蔽されてきた)自我の量子的な性質が、社会の中の具体的な問題として現れてくるのが現代社会である。

私は、自我の量子的性質は、コミュニケーションの中で発生するというより、もともと自我が持っていた本性が明かになっているものではないかと思う。ネットはコミュニケーションにおける拡大鏡であり、ネットに依存する経済は、自我の量子的な性質を抜きにしては語れなくなりつつある。

量子的なネットの達人としての松永さん

一人の人間が、複数のサイトを立ち上げ、双方の管理人同士が議論するという行為は、自我の量子的性質の現れではないかと思う。

人間は同時に相反する複数の感情を持たない(少なくとも、外から観察できるマクロなレベルとしては)という、古典的な観点から見ると、管理人は、両方の立場を俯瞰できるメタレベルの視点を持っており(その位置に確定的に存在しており)、個々のサイトの中にある見解はそのメタレベルの立場を表現する為の、フェイクや技法や方便であるということになる。

量子的な観点から見ると、人間は、複数の見解を同時に持つことが可能であり、複数のサイトに代表される複数の立場に、この人は同時に存在していることになる。

小説の中で登場人物が議論している場合も同じことが言えるが、小説は古典的に扱える。作者と社会の関わりは、この小説という確定した表現によって行なわれており、そこに書かれていることが作者の主張であり、作者が責任を負うべき範囲である。その小説の内的世界に没入して、議論に感情移入して「そうだそうだ」「そんな馬鹿な、こいつは何を言ってるのだ」と思いながら読む読者だけが、「どちらが作者の分身なのか両方なのか」という、量子的自我の問題に関係する。

しかし、複数サイト間の議論では、個人と社会の接点そのものが、量子的性質を帯びてくる。

そもそも、ネットにおける匿名の表現行為は、古典的社会の中で抑圧されている量子的自我が、別の自分(の可能性)を吐き出す行為であるとも言える。しかし、掲示板で煽られて論破されて傷つく時に、人は量子的、確立的に傷つくことはできず、古典的に確定的に傷ついてしまう。つまり、何か厨房的意見を書いた時に、自分の感情は確定的にそのカキコの中に存在しており、それをつかまえられて叩かれたら、そこで傷つくのは、自分の感情まるごと全体だ。

西欧的な人間観というのは、日本人にとっては外来のものであり、歴史的に内在的に確立したものではない。だから、日本人は量子的自我と古典的自我の葛藤に悩まされており、複数のサイト間で議論するような、「量子的社会スキル」とでも呼ぶべきものが必要とされているのかもしれない。

カミングアウトによって明かになった松永さんの経歴は、このような意味で彼が「量子的社会スキル」の達人であることを示している。彼は、オウム/アレフ信者としての自分、オウムウォッチャーとしての自分、「経済モード」の自分等、必要なだけのを自我を使いこなし、WEBサイトとして表現していく。そして、おそらくその全てのサイトには一定の確率で彼の感情が移入されており、彼は、そのスキルによって軽やかに量子的に自己実現していくように見える。

量子的な便宜としての「世間」というシステム

井沢元彦氏によれば、十七条憲法は、「和」つまり集団に織り込まれた個人と、「三宝」つまり仏教に代表される外来のテクノロジーの優先順位を規定したものである。第一条は「和をもって貴しとなす」であって、量子的自我の存続は、日本社会の第一優先事項であると、聖徳太子は宣言した。

その後、「三宝」の位置には、儒教が入り、西欧文明が入り、アメリカの民主主義が入り、グローバリズムが入り、その時その時で重要な外来テクノロジーは変化してきたが、「和」の位置はこの時から変化していない。

その「和」というものを再発見したのが、阿部謹也氏の「世間」シリーズであり、山本七平氏の「空気」であると思う。

どちらも言語化されない暗黙のルールを扱っているが、それが、一定の強固な構造を持ち、今も裏から現実的に多くの日本人の行動を縛っているという話である。

阿部謹也氏は、「世間」というテーマを主題化しようとして、日本史や社会学の学者の反応が鈍いことを繰り返し嘆いている。学者だって年賀状やお歳暮を送りあっているはずなのだが、そこに見られる行動原理を説明できた人はいない。それなのに、そこに学問的な空白があると言っても、なかなか共感してくれる人は少なかったそうだ。

「世間」も「空気」も、言語化されることを嫌っているように見える。

最新の認知科学が明らかにしつつあるように、境界の明確な単一の古典的自我というのは、人間の脳の動きと関係ないフィクションである。そのフィクションを元に構築された西欧的近代社会には、無理がある。

「世間」や「空気」と輸入された西欧近代という二重構造のシステムは、その葛藤を中和する大きな意味があったのではないだろうか。

そして、その機能を果たす上で、「言語化されない」ということが重要で、日本人は無意識的に「世間」に組込まれた時点で、それを明示的に意識して言語化することが無いような暗黙の指令を同時に与えられている。

脱・世間としての量子的社会スキル

しかし、「世間」や「空気」は、権力と接触した時点で実体化する。その結果、誰も責任を取らない意思決定の元で、社会全体が暴走する。長年の間、日本人にとって西欧近代的社会とのバッファー、緩和剤として機能してきた「世間」や「空気」が、包摂の為のツールから排除の為のツールに変貌しつつある。

80年代以降、徐々に、そのように「世間」や「空気」を、自分と敵対するものであるが、(言語化できないだけ)反発しようのない強大な権力の装置と受け取る人が増えてきている。

そして、自分の持つ反感を抑えて「世間」の一部となった人は、「世間」の攻撃的、排除的な傾向を拡大再生産することになる。

「世間」や「空気」からの圧迫感に対抗する為のツールとして、量子的社会スキルが必要とされているのかもしれない。

脱・社会のテクノロジーとしての宗教と量子的社会スキル

宗教の中には洗脳のテクノロジーが含まれていて、だから宗教戦争は洗脳合戦であり、対抗措置として脱洗脳のテクノロジーを持っている。また、古典的自我を要請する社会との葛藤に対する癒しとしても、脱洗脳のテクノロジーが使用される。

宗教は、古典的自我を駆り立てる社会的価値観を、いったん自我から切り離し、そこに新しい意味を与えようとする。そのような治療薬としての宗教の機能は、脱洗脳のテクノロジーに良し悪しに左右される。

たとえば、大学受験に失敗して絶望している人を救うには、学歴の価値を相対化する必要があるが、その時に、社会に埋めこまれた絶対的に思える価値観から、脱洗脳することができなくては、宗教は人を救えない。

相対化、脱洗脳は、一方で人を救う為に必要な薬であるが、それは、同時に、社会を解体する毒ともなる。葬式仏教のような毒性が強くない薬には、人を救えない。オウムは多くの若者を引きよせるだけの強い薬であり、強い薬はそのままで強い毒になる。

こうやってランキングで可視化されたデータを、テレビの視聴率や、コンテンツの売上、携帯電話のメモリー登録数を友達の数と考える人がいるように、絶対視していくのが問題なのだ。人気ランキング以外の評価基準を抑圧していく。

価値観の多様化とよくいわれているが、実際にはそういう状況に耐えられないのだ。ネットは価値観を多様化するとよく言われているが、情報伝達力の強さのために、価値観の統一化をはかっているのではないか。

たとえば、id:kanoseさんが「人気の可視化」と呼ぶ現象に対抗できるだけの、脱・社会を可能にするツールを多くの人が必要としている。

その点において、オウムと松永さんが使いこなしている「量子的社会スキル」には親和性がある。

私の立場

ここまで前提を置いて、ようやく自分の立場を説明できるのだが、こういうことです。

  • 「世間」や「空気」には憎悪に近い反感を持っている
  • 脱・世間としての量子的社会スキルは必要であり啓蒙されるべきだと思う。ネットにおけるコミュニケーションが、人の量子的性質を拡大することを、この意味では支持する
  • 脱・社会としての宗教には、非常に警戒心を持つ。良い宗教が本質的に持つ、脱洗脳のテクノロジーは、一歩間違うと社会に対して破壊的に作用すると思う
  • 松永さんは、脱・世間を志向しつつ、社会の中での位置を確保しようとしているように見える。その見立てが当たっているなら支持したいと思う
  • しかし、ハンドルネームの使いわけが象徴する松永さんの脱・世間傾向は、オウム/アレフの脱社会傾向と密接な関連があり、これには警戒心を解くことはできない
  • 松永さんの高度な「量子的社会スキル」は、脱世間と脱社会のどちらを志向しているのか確定することを許さない(ここまでは、そして、たぶんこれからもずっと)


そして、ここまでの議論で見落されているように思えるのが、

  • 松永さんは、「世間」から逸脱しているのか「社会」から逸脱しているのか(特に懇談会の件について)
  • 脱洗脳テクノロジーの存在と価値

アレフ信者であることを隠して懇談会に出席するのは、「世間」のルールからは完全にアウトだと思う。「社会」のルールから逸脱しているかどうかは、微妙だしもっと情報が無いと断言できないが、現時点ではセーフだと私は思う。これには異論があることも理解できるが、(いろいろな議論を受けて)これからもっと経緯を説明していくうちに「社会」のルールとしてクリアになっていく可能性は高いと思うし、そうしてほしいと思う。

しかし、そうなった時に「世間」のルールとして、受け入れられるかどうか別の問題。

ここで、他人事として割り切ってしまえば、意図的に「社会」の中で「世間」の外という位置を確保して、議論を巻き起こしてほしいと思う。松永さん個人のことを何も考えずに、日本やネットやブログ界の都合だけで言えば、松永さんがクリアにそういう立場に立ってくれるのが一番いい。

しかし、そういう形で身をもって「世間」という暗黙のルールを可視化するという挑戦は、物凄い葛藤の中で的になるということであって、無茶苦茶ハードな道だと思う。経済的にようやった自立した人(である可能性がわずかでもある人)にそんなことを要求するつもりは私にはない。それではどうしたらいいのかと言えば、ここは「世間」に妥協した方がいいのではないかということになって、「アルファブロガーは烏山宛の年賀状を出すか?」で「世間」の目からどう映るのか、書いてみたのである。

そして、脱・社会、脱・洗脳、マルチ人格という傾向は、ブログを書いていれば大なり小なり持っていると思う。そういう意味では、非常に日常的な問題でもあるが、方向性は同じでも、無意識に作用する自己啓発セミナー的なテクノロジーは、全く違うレベルの方法論を持ったものである。方向性の近さと基盤の違いが共に意識されるべきだと思う。

余談だが、たとえば、てんこもり野郎氏の非倫理的に見えるやりかたは、非倫理ではなくて脱倫理のように見える。つまり、善悪の基準が違う人ではなくて、善悪の基準をはずせる人。ヨガなのかもっと別のものか、脱洗脳系の修行をした結果ではないかと思う。反社会的な人は、自分の反社会性に拘束されているので、社会としては管理のしようがある。脱倫理の人は、必要に応じて自分の倫理を着脱できるので(松永さんがハンドルネームを変えて人格を着脱するように)、そういう人が増えた場合に、社会はこれまでの方法では管理できない。