松永英明さんのことは一生信じないけど共存していきたい

川上イチロー名義でオウム信者F氏の論評をしていたり、ゲッベルスに傾倒していたりする人だから、リテラシーの問題としては、まさに彼が繰り返し言っていたように「情報の真偽を保留」した思考が必要とされると思う。

彼は必死で社会復帰の道を探る脱会信者なのかもしれない。崎山伸夫さんが指摘しているように、いくつかの疑問点は残るのだけど、それは生計を立てる為のやむを得ない沈黙なのかもしれない。

そうではなくて、彼のカミングアウト自体が、情報戦略はもう無効だと思わせておいて、「何歩かわからんが先に行く」という複雑な洗脳戦略の一部なのかもしれない。

今後、いくつかの事実が明らかになって、そのどちらであるのか確定する日が来るのだろうか?どういう事実を見たら、この二つの可能性のうち一つを捨てる気になるだろうか、捨てても問題ないと言えるようになるのか、それを考えて行くと、これはほぼ永遠に決着がつかない問題だろうと思う。松永さん自身の手によって、その決着はヴェールのむこうに追いやられてしまったように見える。

そもそも、彼が教団から離脱していることを断言する為には、彼がグルに帰依した経緯を理解した上で、その経緯が打ち消されていく過程を理解しないといけないと思う。「離脱」より「帰依」を理解することが大半の人にとっては難しいことであり、「帰依」の意味を理解せずに「離脱」を確認できるとは思えない。

私は、だから、松永英明さんのような複雑な人格の持ち主を理解することは一生ないだろう。こんなとこにもその複雑さの一端がうかがえる。

しかし、同じような意味でとても理解できない人格の持ち主はネットの中にはたくさんいる。自分もそう見られているかもしれない。(たまたま、この問題がこのブログの休止期間中に起きて、プライベートモードで閉鎖している時だったから、「あわててブログを閉めたessaという奴も松永の一味じゃないのか?」とか誰か言ってくれないか期待したけど、そこまでの人気サイトもしくはぁゃしぃ匂いのするブログとは見なされていなかったようでorz...)

だから、そういう人を全部排除していったら、世の中は随分つまらなくなる。と言うか、理解できない人、信用できない人が排除されるようになってしまったら、自分も排除されることになると思う。

はっきり言って、松永さんと共存していくことには、一定のリスクがあると思う。松永さんがオウムやオウム的な宗教から完全に手を切っていると本人以外の人間が証明することは不可能だ。そうである限り、「松永英明」という仮想人格が、新しい教団の広告塔として活用され、新たな犯罪の為に使われることがあり得ないとは、誰にも断言できない。

しかし、この社会との共存を考えつつ、彼の中にある(我々には理解できない)何かに忠実でもある生き方を、彼が必死で模索している可能性も決してゼロにはならない。

私はその一定のリスクを直視した上で、そのゼロではない可能性と共存して行きたいと思う。