1.0から2.0を見る驚きをこめた生暖い視線の中に「2.0」の本質がある

R30さんの言い訳とか楽屋裏の話とかの中身の話については、選択できないつながりの中でというエントリーで書いたけど、このエントリではもうひとつ印象に残ったことがあって、それは、R30さんの泉さんに対する評価だ。

普通の感覚なら、そこで取ったインタビューを滝本氏などの裏取りもせずにそのまま公開するなど、あり得ないだろう。僕も理解できない。でも、彼女はたぶん「ジャーナリズム2.0」なんだよ。僕のインタビューのテクニックも、松永氏の公式見解トークも、何もかも全部「そのまま、聞いたまま」ぶちまけてしまって、そこから何かを生み出せると信じてるらしい。まあ、そういう信心から本当に何かが生まれることもあるかもしれないから、僕は過去の自分の「1.0」の流儀を彼女に押しつけるのは、諦めた。


素人ながら、泉あいさんのジャーナリストとしての危うさはよくわかる気がする。松永さんに対するインタビュアーとして、R30さんや佐々木さんと比較して、泉さんのツッコミは場違いで甘くて無意味なものばかりに見える。素材が素材だけに、これは相当危い。

しかし、泉さんは単なる未完成のジャーナリストではなくて、1.0の人とは違う所にこだわりがある。その違いをしっかり認識して、(しかもそこを評価しているわけでもなく)「2.0」と呼ぶ所が、さすがR30さんだと思った。

これを見て思い出したのは、1999年7月、まだ「ホームページ」の時代に、「オープンソースジャーナリズム」というタイトルで書いた自分の文章だ。

ソフトの開発というのは、非常に時間がかかり偏執狂的な正確さを要求する作業だ。ちょっとしたアプリケーションでも、内部には物凄い複雑さがあって、これを管理するのは並大抵のことではない。それを「素人が大勢で土日に作るって?冗談も休み休み言え!」現在はLinuxを愛用している人でも、ソフト開発の専門家ならばほとんどが一度はこういう感想を漏らしたことだろう。

初期のオープンソースに関わったプログラマは、狭義のプログラミングの腕は凄い人が多いから、状況は微妙に違うのだけど、1.0から2.0を見る時には常に、驚きと、「どうしてそこにだけこだわるの」という違和感がある。もし自分にカーネルのコードがスラスラ書けたとしたら、リーナスさんの作業を見て、彼がこだわる所とこだわらない所の中に「2.0」を見て違和感を感じていたと思う。

普通に考えたらむちゃくちゃなことをやっているとしか思えないのだが、彼女のあの、「聞いたことをそのまま」と言う時の一途な目を見ると、「じゃあ勝手にすれば」としか言えなくなってしまうのだな。これから彼女がどう化けるのか、あるいは化けないのか、それすらも分からないが、可能性というものがそこにあるのであれば賭けてみるのも悪くないかな。何となく、そんなことを思った。

実際、松永さんのインタビューと滝本弁護士のインタビューは、どちらもとても読みやすいので、省略や加筆訂正はなくても、相当に手が加えられているような感じがする。ただ、その加工は、ひたすら読みやすさと「そのまま」に徹しているのではないだろうか。

この驚きと違和感こそが「2.0」の本質で、「2.0」という言葉の意味のある使い方はそれだけだと思う。つまり、「2.0」という言葉は「2.0」の当事者になったらもう使えない言葉で、「1.0」の人が「2.0」を見て驚いた時に使うべき言葉だ。