選択できないつながりの中で
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派生したエントリーからこういう順番で読んでみたけど、松永さんのインタビューで印象に残った所は、一連の「家族」に関する発言。
私がオウムを気に入ったのは、家族というものを重視しない。家族というのは今生の縁であって、たまたま親子に生まれました。でも来世はわかりません。家族同時に死んだら、人間だったとしてみんな同じ年齢から生まれるわけで、それがまた家族になるということはない。或いは敵同士が今度は恋人同士になるかもしれないとか、その辺は普通に仏教的な考えである。それに完全に則って行くと、家族とか関係ない。
松永: 親子の問題がいろいろと報道されていると認識はしているけれども、自分としては価値観的に、少なくとも家族という枠組みはぶっ壊してという。少なくとも、日本社会みんな壊せって意味じゃなくて、自分のところではそれを壊してしまってというのは、全然違和感がなかったというか、むしろ壊したかったというか。
松永 :例えば、家族というものに対してどうしても馴染めないっていうのかな。家族を一番の価値にする価値観だと何か馴染めないというのが、前からあって、その辺でどうしても話が合わない部分が出てくると思う。
何故かと言うと、この「家族」という問題だけが、松永さんの世界観の中でおさまりが悪いように見えるからだ。
松永さんは、オウムに洗脳されたのではなく、自分が主体的にその教義を利用して、自分の世界観を拡張したと言っている。その世界観の中でオウムの教義の占める範囲は小さくない。だけど、それは押しつけられたものでもないし、もともと自分がオウム以前に持っていた物の見方の延長線上にある。オウム以前から今日まで自分の主体性は連続していて、「洗脳」という言葉が意味するような、外部からの強制的な侵入や不連続性は無かった、という話のように読める。
そして、その教義と一連の犯罪の関係については「わからない」と率直に認めている。
松永 :世間的にも、具体的に教義のどこが危険であるとか、それを抽出できてないわけでしょ。とにかくオウムが危険だ。オウムの教義が危険だという話はするけど、じゃあオウムの教義のどこが具体的に危険なんですかと言ったら誰もわかってない。内部の人間でさえ推測が成り立たないという。しかもその事件自体が、教義に則って行われたものなのか、それとも目先の対応のために行われたものなのかっていう、そこだって確定しないわけでしょう。
この前に、松永さんは「内部の人間」として、教義と事件の関連について、「かくかくしかじかの教義があって、これをこういうふうに誤解したら、ああいう事件につながるかもしれない」という形で推測を述べているけど、それはあくまで推測であって断定ではない。他の誰かがもっと説得力のある説明をしたら、それが外部の人間であろうとも、松永さんは自分の推測を引っこめて、そちらの説明を認めるかもしれない。実行計画に具体的な関わりがなくて、松永さんの理解する教義からダイレクトに事件につながる行動を導き出せない以上、松永さんは当事者ではなくて、犯人たちの行動を外から推測するしかない外部の人間である。
そして、「具体的に教義のどこが危険であるとか、それを抽出できてない」という指摘は重要なことである。
すごく理性的だと思う。
松永さんの世界観は磐石であって、あの犯罪によって揺るがされていないのだ。揺るがされてないから、自分が事件についての説明ができないことも素直に認めることができる。
無理な説明をしたりやたら反省するのは、自分の世界観が常に何かに脅かされていて不安定な人で、本物の科学者と同じく、確信があって根っこがはえている人は、「自分にはわからないことがある」ということを認めることができる。
だから、オウムの犯罪は松永さんの世界の中で、ひとつの「謎」として居場所がある。
それと比較して、「家族」というものの扱いについては、松永さんは何となく困惑しているように思える。それを「謎」として放置することはできないみたいだ。
この長いインタビューの中で、「家族」の話だけが松永さんの肉声で、それ以外の所は、松永さんは自分の世界観を述べているだけだ。彼の世界観をここまで説明できる人間は彼しかいないけど、その点を除けば、この話をするのは彼自身じゃなくてもよかったような感じ。
R30さんと佐々木さんは、ちゃんと追及すべき所を追及しているように思えるけど、松永さんの世界観を突き崩すことはできてないようだ。しかし、それは松永さんが何かを隠したり、率直で無かったからではないと思う。松永さんの世界観は磐石でスキが無いからだ。磐石でスキがないからアグレッシブになる必要もない。泰然自若と聞かれたことに全部答えることができる。
「善意の殺人」という滝本弁護士の指摘は、言葉で説明できるかどうかは別として、こういうスキの無い世界観をオウムの信者がみんな持っていることを指しているように私には思える。
ただ唯一、「家族」という問題だけが、松永さんの世界の中で唯一の特異点になっている。オウムの教義の説明が、松永さんの実感に届かなかったのは、「家族とは何か」と言うこと。
私はこう思った。つまり、「家族」とは自分が選択できないつながりである。自分が選択できないつながりの中に放りこまれてしまうことを、松永さんは受け入れたくないのではないだろうか。
それは、R30さんが言っていた、日本軍とアジアの問題にもつながる。私が日本に生まれたことは、自分の選択ではない。でも、日本に生まれた以上、そのつながりの中で生きるしかなくて、もし私がタイに行って友達ができたら、そのことで私は責められるのかもしれない。それについて「自分の選択ではなくて自分が関与してない問題だから」と言って、無関係であることを主張できるだろうか。
松永さんは、自分が主体的に選択した「オウムの教義から派生する世界観」の範囲に限って、オウムの犯罪の責任を受け入れようとしている。たまたまオウムという教団に所属していて、その教団の一部の信者が松永さんの知らない所で、犯罪を起こした。その犯罪と松永さんのつながりは、もしあるとしたら、家族とのつながりと相似形になると思う。どちらも、自分が選択できないつながりであって、そのことから発生する責任を社会が強制するなら仕方なく従ってもいいけど、自分は心の中では「それは自分に無関係なことだ」と思い続ける、そういう意味で相似形だ。
私が、地下鉄サリン事件を同時代的に経験したことは、私の選択ではないし、私が選択したことから派生したことでもない。だから、いかなる意味でもその責任を負うつもりはないけど、私はそれが自分に無関係のこととは思わない。松永英明さんのことは一生信じないけど共存していきたいと言った時、「共存」という言葉が意味していたのは、松永さんやその他大勢のオウム信者の影響を私が受けるということだ。彼らの存在によって、私の考えることや私の言うことや、私のすることや私がブログに書くことは変化する。私と彼らはつながっている。それは、いかなる意味でも私の選択ではないけど、私はそれを納得して受け入れようと思う。
「自分が選択できないつながりの中に放りこまれてしまうこと」が管轄範囲外になってしまうなんて、なんだ意外にオウムというのは大した宗教ではない、と私は思った。