「反日」としてのオウムとニート

知りあいで、先週、韓国へ出張してきた人がいたので「どうだった」と聞いてみたら、「街宣右翼みたいな人が騒いでいるだけで、普通の人は別に変わりない」という反応だった。約一週間のビジネス目的の滞在なんだけど、半年前と変化は感じなかったそうだ。

どこの国でも騒いでいる人はごく一部であって、報道されているものはそういう突出した人たちなのかもしれない。

反日」は、それぞれの国の国内問題という側面もあって、苦しくなると手を出してしまう麻薬みたいなものである。これを打てば一時的には痛みが消えるわけだが、その場しのぎにしかならないわけで、それに中毒となりつつある政府を、それぞれの国の人たちがどうするか見守るしかない。

ただ、底流としての「反日」が全くないかと言えば、そんなことはないわけで、そういう「静かな反日」こそが、我々が考えるべき問題だと思う。

そして、その中にも簡単な問題と難しい問題がある。

まず、文化の違いから来る誤解という単純な問題もある。韓国で、入学試験におけるカンニングが社会問題となった時、大学の責任者の人たちが、自分の足を鞭打ってアピールする場面のニュース映像を見たことがある。

大学の偉い人が、擬似的な親として自分を傷つけて見せることで、子である学生たちに反省を促すということらしいが、正直言って、かなり強烈な違和感の残る映像だった。

それが、彼らの謝罪のスタンダードなスタイルであるとしたら、我々のそれは、随分いいかげんでぬるいものに見えてしまうだろう。そういう文化的な違いから来る誤解が、他にもいろいろあるのではないか。

そのような単純な問題でやるべきこともたくさんある。

しかし、そういうものを全部クリアしても残る、底流としての「静かな反日意識」も、やはり存在しているのは確かだと思う。

オウムとニートという問題が、その手掛りになるのではないか。いや、手がかりというより、オウム信者ニートが拒否しているものこそが、「静かな反日意識」が反感を持っているものと、かなり通じているのではないか。

なんでも話し合いで解決し、過去を水に流す、無宗教の日本人というのは、我々が自分で思うほど、にこやかでつきあいやすい相手ではないのだと思う。非常に理解しにくく、しかも反感やギャップを言語化しにくい分だけ扱いにくく、考えるのもうっとおしい人たちに見えているのではないのだろうか。

外国のことはわからないのだが、オウムとニートは、そういう問題だと思う。つまり、内なる「反日運動」としてこの二つの問題を考えるのだ。彼らが、日本社会に溶けこめない理由をうまく言語化して、中国や韓国の一番理性的な人たちに、それについてコメントしてもらえたらいいと思う。

そして、山本七平氏の日本論は、その為の基礎になるような気がしている。最近読みはじめたばかりで詳しく言えないのだが、例えば、「無宗教」がひとつの宗教であるという観点がある。「話せばわかる」と言う「話し合い絶対主義」において、その信仰の対象である「話し合い」は、キリスト教を信じる人が「神」と呼ぶものと、非常に近い位置にあるという話もある。そういうことを、息の長い論理でとことん考察しているのだ。

日本人は自分が信じていることを、自分でよく知らない、そこに大きな問題があると、山本氏は言う。自分たちに見えないものを、オウムとニートと隣国の人たちは、我々の中に見ている。それに対して反感を持っているけど、その反感の対象が自分たちに見えないから、「反日」が随分勝手で気ままで浅いどういでもいい問題に思えてしまうのではないだろうか。