「私の言葉」からの普遍性

三上勝生氏は、このエントリーでトーマス・バクダールという人の個人サイトを紹介し、そこで紹介されている彼の「個人的な価値観」について、次のように述べている。

個人的な価値観を自覚するということは、自分を含めた世界全体を俯瞰して、将来にわたって自他共に気持ちのよい状態を維持するために、自分の仕事や生活を深いところから律する<法>を明確にするということである。

徹底的に「私」を見つめ、「私」の中への向かう思考が、ひとつの普遍性に到達する可能性を示している所に、私は非常に共感する。

ここで重要なことは、この「個人的な価値観」を、これまでの類型と違う目で素直にとらえることだ。従来、このような表明は、次のどちらかの極論につながることが多かったと私は思う。

  • 「個人的」であるはずのその価値観によって、他者を洗脳しようとすること
  • ひとつの閉じた完結した世界を作り、他者との関わりを拒否し孤立すること

これは、宮台氏の、社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか - MIYADAI.com Blogにある「機能の言葉」と「真理の言葉」に対応していると思う。つまり、「『機能の言葉』的独善=洗脳」か「『真理の言葉』的独善=孤立」ということ。

このように、非常にシンプルな言葉で、自分の価値観を表明していく姿勢は、「スモールビジネスの国」と「強者と弱者の国」で取り上げた、37 SignalsのJason Fried氏に通じるし、三上氏も言うように「はてな」の社長近藤淳也氏を連想する所もある。

これらの言葉は、「洗脳」も「孤立」も免れていると私は思うが、それは、彼らの「全体性への断念」が徹底しているからではないかと思う。「洗脳」を意図する者と「孤立」を意図する者は、どちらも、「全体性」の中での自分の小ささを恐れている。自分一人では小さすぎると思うから、他人を巻き込もうとするか、世界との関わりを拒否して「孤立」しようとするのだ。「全体」の中で自分が小さいか大きいかを問題にするのは、「全体性」に対する未練だと思う。彼らの「個人的な価値観」の中に性急に「洗脳」か「孤立」を見つけようとする人たちも、同じように「全体性」に未練があるように私には思える。

ネットの中での実践を通して、彼らは、ネット「全体」がどうやっても自分の視界にはおさまりきらないことを体感的に学習した。同時に、自分がさまざまな回路でネット「全体」とつながっていることも学習した。自分は「全体」の中で、ごく小さな領域を占めているに過ぎないけど、その領域を気持ちよくすることと、その気持ちよさをシェアすることは可能であるという確信。彼らの言葉は侵略的ではないし独善的でもない。

それは、Web2.0という言葉とそれに関わる技術の最も肯定的な側面でもある。このような「私の言葉」は、ネットの中に置かれることで、新しい意味を持つ。

もちろん、それが新しい「洗脳」や新しい「孤立」につながるものでないかチェックすることは必要だが、このような「私の言葉」の価値は、じっくり見極められるべきだと思う。