United Clusters of America における本屋の滅亡

私はかなりの本好きである。昔からジャンルを問わず本を読むことは異常に好きだが、本屋好きの方が年季が入っているかもしれない。

待ち合わせとかで突発的に空き時間ができると、まず本屋で時間をつぶすことを考える。住む所や勤務先を変えた時は、まず、テリトリーを確認する野生動物のように、近辺の本屋を点検する。だから、通勤経路にある本屋は、だいたいどのあたりに何のジャンルの棚があるかまで把握している。そういえば、田舎から東京に出てきた時には、何より東京の本屋が無闇にでかいことに肝をつぶしたものだった。

これを何十年も続けていると、本を買いたい時に、だいたいどこにあるか見当がつくようになる。趣味仕事共にいろいろとマイナーなジャンルにお世話になっているので、マイナーさ加減によって、「あ、これは最寄り駅のあそこにある」「これは会社の帰りにちょっと回り道してあそこに寄る必要があるな」「これは都心まで行かないとだめだから、今度、あの取引先の所に外出した時にしよう」という計画が立つのだ。

本を買うという行為は、思うがままに本を探し、「あるはずだ」と思う所でそれを見つけ、手に取り、目次を見て、まえがきやあとがきをナナメ読みして、本文をパラパラとめくることだ。そういう前戯があってこそレジの前に立つ快感があるものであり、だから、Amazonができた時には「これは邪道だ、これで確かに本は買えるが快感がない」と毛嫌いしたものだ。ブログにAmazonのことを書くようになっても、持ち前の特殊能力で自分の移動範囲内にあるかどうか見極め、買える限りは本屋で本を買い続けてきた。

しかし、そういう本屋好きとしての私の趣味生活は、ここ数年で破綻した。何よりAmazonでないと買えない本が増えてきた。同時に「この本だったらこのクラスの本屋にはある」という動物的直感がはずれることが多くなってきた。原因はわからないが、ヘッド志向、マイナー切り捨てが、大小問わずあらゆる本屋で同時進行したような気がする。あるいは、ネットに触れて、私のマイナー度加減が知らないうちに進行していたのかもしれない。いずれにせよ、本屋というコンセプトが、自分からどんどん遠ざかっていく感じがした。

本屋の中で、探している本も見つけられず、知らない本を探す楽しみも奪われ、途方に暮れることが多くなった。だんだんと、本屋は私にとって居心地のいい空間ではなくなってきた。

自動車社会のアメリカでは、「通勤途中で時間つぶしに本を読む」という習慣がない。(そういう意味で、日本の「本」の役割を果たしているのがアメリカの「ラジオ」。)なので、本は本好きの人のためのもの、という感じが強い。(なので、大衆娯楽的有象無象的面白い超ジャンルみたいなものが中々ない。SFといったら宇宙人とかナノテク、純文学と言えば愛と青春と老化と孤独、みたいな傾向が強い。)で、その本好きの人がしみじみと時を過ごすのが本屋。あちこちにソファやベンチがあって、皆どっかりと腰を下ろして本を読みふけっていたりする。だから、センスのいい本が揃っていて、しかも雰囲気がよい本屋は本好きの心のよりどころ。なので、Kepler'sが閉店したときは地元の本好き人間には動揺が走った。

もう半分あきらめて、本屋好きから単なる本好きへと堕落しつつある私であるが、この話を聞いた時には、かの国にも自分の同類がいたのか、と驚いた。

で、思ったわけだが、独立系本屋がアメリカで生き残るとしたら、こういう「コミュニティからの会費(もしくは寄付)による運営」というのが一つのモデルのなるのではないかと。殆ど公共事業。アメリカでは、ラジオ局やテレビ局で、「視聴者からの寄付金による運営」というモデルが事業として成立しているが、本屋もそうなるのでは、と。

そして、あちらでは、滅亡しつつある「本屋好き」の為に、会費によって無駄で居心地のいい空間の権利を買うという選択肢が、用意されているようだ。

アメリカは人種のパッチワークだと言うが、マイナーな趣味の集団についても同好の士とそれ以外を隔てる壁は、日本より固くデジタルなのだろう。私も、これまでたくさんの本好きに出会い、さまざまな本の話をしたが、相手との距離はさまざまだ。おそらくグラフに書けばなだらかな曲線になるだろう。そういう曖昧模糊としたぼんやりと集団を囲む枠組みは、アメリカの中では存在しない。

だから、本屋もレコード屋もつぶれる時はデジタルにつぶれる。顧客集団がクラスター化しており、クラスターとして移動するからだ。そして、それなりの大きさの集団には、市場によって移動先が用意されるが、その移動先は身もふたもない極論になる。

サイバーカスケードという現象は、ひとつの側面としてはアメリカ化なのかもしれない。あらゆる制約をはずされ、広い空間に放り出されると、自然と人はクラスターを形成する。クラスターに適応して、あらゆる事業がパッチワーク化する。

今日まで、私は自分の「本屋好き」について、カミングアウトしたことはない。そうする必要もなかったし、そこまで自分のアイデンティティを屹立させなくても、ひそかな趣味の要求を満たすことができたからだ。この新しいビジネスモデルが成功し、日本にも輸入されたら、たぶん私はその会員になるだろう。だが、それは、「本屋好き」というレッテルをデジタルに貼られているようで、あまり気分が良くないし、それによって「本屋好き」の「本屋好き」性は、変質していくと思う。

アメリカの民主主義は、主権者がクラスターを形成することを要求する。クラスターとクラスターがぶつかりあってお互いを削り合う場は用意されていて、よく機能している。たぶんあの国は、人々が集まった国ではなく、州が集った国でもなく、大小さまざまな境界のはっきりとしたデジタルなクラスターが集まった国なのだろう。人々は、自分の好きなクラスターに所属することができる。いくつ所属してもいいし、大半は出入りも自由だ。あらゆるクラスターに対して、誰でもがそれに自分が所属しているか否を、自分の意思以外に左右されず明確に断言することができる。

しかし、クラスターを形成しないと自分は存在しないものと扱われ、特定のクラスターを遠巻きに見守り支援するような方法はなく、自分があるクラスターに所属するか否かについて口を濁す自由はない。

クラスター同士の平等という政治制度としては評価できるが、クラスターという形以外の人間と人間の関係を排除するという専制がそこにあることも否定できないと私は思う。