アメリカの過剰な暴力を岸田秀理論で理解する

アメリカの指紋に思いつきで書いたことですが、岸田秀氏の精神分析的な枠組で歴史や国際政治を分析するという手法によって、アメリカや日本のイラク統治をめぐる最近の状況が理解できるような気がしてきました。それについて、ちょっと詳しく書いてみました。

基本的な枠組を岸田氏から借りてそれを自分流に説明した上で、イラク統治の問題にあてはめたものです。例によって俺流理解なので、興味がある人はぜひ原典にあたってください。岸田秀氏はだいたいどの本でも金太郎飴のようにこういうことを言っています。

アメリカの建国神話の嘘

アメリカのおかしい行動の起源は建国時の嘘にあります。アメリカは、ヨーロッパから侵入した白人が先住民を暴力的に追い出して、彼らの土地を奪って作った国です。

それは、侵略者自身の価値観においても正しいとは言えない行為ですが、自分たちの国のスタートがそういう不当な暴力であったことは、とても認めがたいので、何とかそれを正当化しなくてはならない。

そこで、「自由と民主主義の国」というアイデンティティでその暴力を覆い隠そうとしたわけです。「自分たちは、素晴しい社会制度と文明をこの大陸にもたらした者だ。多少の犠牲はあったかもしれないが、大局的にはそれは彼ら先住民の為にもなっている」

ここで重要なことは、そういう「啓蒙」活動は、善意の一方的な押し売りで、「よけいなお世話だ」と言いたいことですが、啓蒙を受ける側にとってでなく、啓蒙を行う側にとっても、アメリカの建国の状況の中には是認できない部分があることです。つまり、「自由」「民主主義」「産業文明」を無条件で良しとする西欧的な価値観の立場から見ても、先住民への侵略はやり過ぎの部分がたくさんあることです。西欧中心の一元主義と多様的な文化との対立は難しい問題ですが、それ以前の問題がアメリカの建国の事情には含まれていることです。

自分自身の目から見て「こりゃひどい」ということを、「正しい、やむを得ないこと」にすりかえてしまったのです。アメリカは、建国以来ずっと、自分自身がついたこの嘘による圧迫を受け続け、それによって外交における行動に歪みが見られるようになってしまいます。

A国とI国の話

さて、A国という理想的な国があったとします。この国は、自由と民主主義に基づき運営され、繁栄しています。軍事的に強力な力がありますが、それを侵略の為に使うことはありません。

そして、一方、I国という独裁者の国があったとします。この国は、独裁者が圧政を行ない、民衆を苦しめています。その悲惨な状況がA国に伝わると、A国がI国に対して、「そのような人権侵害は許されない、ただちに政治のやり方を改めなさい」と警告します。

何度かの警告ののち、A国は軍事力を行使して、I国の独裁者を排除します。そして、最低限の占領期間でI国に民主主義に基づく政権をうちたてて、すみやかに撤退します。

このような国があったとして、アメリカはその国を支持できるでしょうか?それは、アメリカに非常に大きなジレンマをつきつけます。

A国の行動は、アメリカの価値観にとって満点とも言える理想的な行動です。「自由と民主主義」という理念の恩恵によって、I国の人びとを幸福にしています。また、悪を看過することなく、必要な場合には暴力を使ってでも介入し、それを排除します。それを見逃すことは「男らしくない」行為です。

しかし、一方で、もし現実にこういう国があったら、アメリカは「自分とA国が比較されたら」という恐怖に怯えるのです。暴力的な介入による犠牲を最小限にすました事例があったとしたら、それとアメリカの建国が比較される。あるいは、太平洋戦争における「暴力による日本人の救済」という行為に関して、その暴力が本当に最小限のものだったのかどうかをチェックされてしまう。

もちろん、状況も時代も違うので、それを比較するのは無理があります。そのような比較はナンセンスだ、という声もあるでしょう。しかし、他の誰が許しても、アメリカの内なる良心は、これを見逃さないのです。

「最低限の暴力による啓蒙とはA国のことだ。おまえのは啓蒙の為とは言え行き過ぎだ」

アメリカは、誰が言わなくても、自分の中にあるこのような非難の声に、おびえているのです。

過剰な暴力の必要性

もちろん、上記のA国とI国は、現在のアメリカとイラクを抽象化した架空の話です。

しかし、もしアメリカが優等生的にふるまったら、これは現実になってしまいます。おそらく、それを行なうだけの能力はアメリカにあります。もし、何の制限もなしにその能力を行使したら、(アメリカにとって悪夢とも言える)理想的なA国がそこに出現してしまうのです。

そこで、アメリカはA国に介入する。なんとかして、A国が理想的にふるまえないような介入をしようとする。A国の指揮系統を乱したり、誤った情報で情勢判断を狂わせて、A国の行動を乱そうとする。優等生のA国を、劣等生の自分なみにしようとするのです。

一番理想的なのは、A国が必要以上に暴力を行使することです。それによって、アメリカの建国の嘘が隠しやすくなる。「ほらみろ、やっぱり自由と民主主義の為には、かなりの犠牲が必要なんだ」ということになるわけです。

繰り返しますが、現状のイラクアメリカの西部開拓時代を重ね合わせるような人はいません。そんな比較は成り立たない。そういう突拍子もない比較をするのは「アメリカの内なる良心」なのです。「嘘がバレたらどうしよう」と怯えるアメリカだけがそれを気にしているのです。

そのような過去の亡霊が現在のアメリカを支配して、どうしても過剰な暴力に走らせてしまう。そして、その過剰な暴力を世界に承認させることで、同時に過去の自分を認めてもらおうとするのです。

捕虜虐待事件を読みとく

捕虜虐待事件で一番不思議なのは、どうしてこういう情報が簡単に流出したか、ということです。CIAの指示があったという報道がありますが、戦時国際法にあからさまに違反しているこのような指示をするなら、それとともにそれを隠蔽して、そのような行為がバレないような指示が同時にあってしかるべきです。

それがどうも虐待された捕虜からの流出ではなく、アメリカの内部から流出しているようです。

隠蔽した過去の罪におののく「アメリカ」と、西欧的価値観を啓蒙する理想的な「A国」の対立として見ると、この謎がきれいに解けます。つまり、これは「アメリカ」が「A国」に仕掛けた謀略であるということです。

A国が理想的な統治を行なうことで、過去の悪業をあばかれることを恐れるアメリカは、A国の統治を妨害したいのです。その為に、スパイを送りこみ、過剰な暴力を行なわせ、それをさらに露出することで、「A国」の評判を落とそうとする。そのことによって、「自由と民主主義は一定の暴力なしには成し遂げられない」という従来の主張の根拠を強化しようとするわけです。

もちろん、そのようなA国やスパイは現実に存在しませんが、アメリカという国がかかえる深刻な葛藤を個人個人が引きうけることで、集団的な過失の連鎖として、そのような奇妙な行動があたかも仮想的な「アメリカ」の意思として現れてくるのです。

戦時下のストレスにおいて捕虜の虐待が行なわれやすいものなら、それを管理する上官はそういう行為が発生しないように注意し、具体的な防止策を取るべきです。そのような監視や注意が、なぜか少し足りなく遅れがちになる。あるいは、非道な虐待を含む尋問がゲリラ対策として必要であったら、国際的な非難を意識してそれを隠蔽する努力が必要なのですが、それもなぜかおろそかになる。

戦争において過失や齟齬は避けられないものでしょうが、その過失や齟齬がなぜか特定の方向ばかりに起きて、連鎖的に事態を深刻化させていくわけです。その偏りの背後には、集団心理的なトラウマがあるということです。

太平洋戦争と過剰な暴力を受けた者のトラウマ

アメリカの行動は、このように常、にアメリカ自身が掲げる目標に対して、その目標遂行に要する量の暴力より、常に過剰な暴力を含むことになります。ここで言う「ちょうどいい量の暴力」とは、神の視点から見て誰が見ても文句のつけようのない理想論ではありません。政治や戦争は不確定要素があって不完全な情報の中で行なうことですから、錯誤や判断ミスは人間である限りしかたがない。ただ、その与えられた限界の中で最大限の努力をしたかどうかということです。アメリカ自身に与えられた状況と現実的な制限のもとでの最大限合理的な方策というのは存在します。アメリカはそれをそのまま実行することができなくて、常に余分な暴力を追加してしまうということです。

太平洋戦争における原爆の投下もそのような「過剰な暴力」であったと思います。軍事的にその当時の状況を分析して、それが不要であったと言うのではありません。アメリカが原爆の投下を過剰に正当化しようとすることから推測して、そのように思うのです。つまり、アメリカの判断として、あの時点では何もしなくても日本は降伏していた、あるいは、その時日本が受けいれたであろう降伏条件が、アメリカの国益からして充分なものになった、ということです。そう思ってうしろめたいから、あれを無理に正当化しようとするのです。逆に正当化を見ていれば、当時のアメリカがどういう判断をしていたか推測できます。

日本は、ただの被害者でなく、「過剰な暴力」の被害者です。このことが、日本により深刻な傷を残します。アメリカが純粋に自国や同盟国の国益だけに従って戦争をしていたら、そのような傷は残らない。そのような戦争は相手の立場になって理解することは容易ですから、目に見える傷しか残らなかったでしょう。

しかし、日本は病的な「過剰な暴力」を持つ占領者の元で、戦後をスタートしなくてはならなかった。その「過剰性」を受けいれることで、日本も深刻なトラウマを背負うのです。すなわち、「過剰な服従」です。

現実に圧倒的な力を持つ占領者がいる以上、その占領者に服従するのはやむを得ない、合理的な選択です。しかし、日本は無意識にその暴力の「過剰性」を感じていて、それを声高に訴えることはできない。

そこで、アメリカが要求する以上に、国際関係の中で、日本とアメリカの関係から必要とされる要求以上の、「過剰な服従」をすることで、その「過剰性」を隠蔽することを余儀なくされたのです。

「過剰な現実主義」と「過剰な理想主義」の分裂

アメリカが戦争をする時、同盟国として日本がどうすべきか、それは複雑な課題です。簡単に意見が一致しないのは当然です。朝日新聞産経新聞のような二つの立場があるのも自然です。

もし、朝日と産経の中間に世論の最大公約数があれば、そこにはトラウマ的な歪みがない、純粋に政治的な課題です。

しかし、実際にはそのようにならない。少し誇張して言えば、「派遣反対論者の多数は朝日より左」で「派遣賛成論者の多数は産経より右」、そしてその中間の人は少ない。そのように、両方の極論を唱える人が多くて、中間の人はめったにいない。

実際の自衛隊に関する議論では、関連する要素が複雑すぎてこのような構造が見えませんが、日本人拘束事件に関する世論の分裂は、まさにこのような構造を示しているのではないでしょうか。

これは、アメリカの過剰な暴力に対してどう反応すべきか、ということに対する日本の分裂なのです。

ひとつの考え方は、アメリカはとにかく非道なことをしているのだから、徹底的にそれを糾弾し反対しなくてはいけない、言わば過剰な理想主義の考え方。こちらは、自己の主張と現実との細かい突き合せを拒む所に特色があります。元人質を支持するのは、こちらの人たちです。

もうひとつは、国際政治はきれいごとではすまないから、現実的に超大国で利害関係の深いアメリカに追随していくしかないという考え、言わば過剰な現実主義です。こちらは、利害判断、情勢判断と価値観の摺り合せを拒む所に特色があります。元人質を批判するのは、こちらの人たちです。

両者が共通して恐れるのは、「アメリカは非道であるが、日本にはそれを糾弾する力がない」という現実の認識です。つまり、アメリカの「過剰な暴力」を受けた過去を否認しようとしている。

これが日本のトラウマであって、このために世論が極端に分裂して、なかなか噛み合った議論ができないのです。

essaは「過剰な服従」「過剰な現実主義」にとらわれていないか?

このように分析していき、その観点から自分自身を見ると、私は自分が「過剰な服従」「過剰な現実主義」に引きよせられがちであるのを感じます。その地点から、「過剰な反発」「過剰な理想主義」としてサヨクやマスコミを批判しているような気がします。

ただ、具体的にどこがどう歪んでいるかまではわかりません。なんとなくそんな気がするだけです。

世論の中のキャズムとブログ

この文章では、私は岸田秀氏のことを意識せずに似たようなテーマを書いています。一般論として極論と極論に世論が分裂することに注目し、そこに「キャズム」という言葉を転用できないかと提案しています。また、ブログにはキャズムを埋める機能を期待できないか?ということも少しだけ考察しています。

このようなトラウマをかかえた世論に対して、ネットやブログがどういう働きをするのか、ということは面白いテーマだと思います。

朝日や産経のような大手メディアが、大手に課せられる制約の為に極論に分かれがちな世論をかろうじてまとめているとしたら、ネットはそれを分裂させる(あるいは表面化させる)働きがあります。今回の事件で、産経新聞2ちゃんねるの関係はまさにそれだと思います。産経新聞が大手である為に踏みこんで言えない本音を2ちゃんねるが代弁していた。それによって議論が加熱していました。

一方で、ブログには別の働きがあると思います。つまり、左右両極の割れた世論のキャズムというのは、空白域です。ブログが他のブログとの差異を追求していくものだとしたら、意識的、無意識的にその空白域を埋めようとするブロガが多くなるのではないか。

トラウマ的な分裂がある状況では、極論を書いても、それはありふれた意見です。そのようなブログが既にたくさんある。人が書いてない意見、視点を持つブログが注目を集めるとしたら、むしろ中庸の意見を独自の観点から述べれば注目を集めるわけです。

もちろん、凡庸な中庸の意見、単なる妥協案であったらそれはスルーされますが、ある程度の独自性や説得力のある意見同士で比べると、ブログの特性上、極論より中庸(ギャップのある所)の意見の方が、注目を集めやすい。競争相手が少なく、生存競争上有利なのです。

ですから、世論の分布と注目ブログの分布は一致せず、ブログの方が世論のギャップと関係なく、中庸の観点が多くなることが期待できるのではないでしょうか。それはおそらく、左右の両極論から叩かれることになるのですが、「叩かれる」ことはこの世界ではむしろ有利なことです。少なくとも、そこに多くの人の注目を集める作用はあると思います。

それぞれが、自分のトラウマに直面することが無ければ和解し統合することは不可能です。ブログが単純に両極論の橋渡しになるとは言えません。しかし、その方向を推し進める働きを内在している可能性はあると思います。