アメリカ市場とアメリカ人のギャップと Uncategorizable な日本のコンテンツ

利権が無い文化を育てれば日本は生き残れるというエントリに海部美知さんからトラックバックをいただいた。

「日本のコンテンツに望みがないわけじゃないけど、売る為の努力無しで黙って売れるものじゃないし、その努力が欠けている」という話だと思う。なるほどそうだと思える部分と、むしろかえって希望が見えてきた部分がある。

パフィーポケモンのヒットについて、日本での報道と、海部さんのように現地にいる人の生活実感や各種データにズレがあるという所は、私には全く認識が無かった所で、素直に「へえ、そうだったのか」と言うしかない。これは「素材としては可能性はあるけど、それをアメリカの市場の構造にハメこむ為にはそれなりの工夫が必要」という話だと思う。

実は元の記事を書く時に、私は「アメリカの市場とアメリカ人のギャップ」ということを考えていて、整理しきれなくて省いてしまったのだけど、その観点の傍証となるように感じた。

アニメの放映されるテレビ局のうち、地上波の大手4社は、見る人が多いという面もあるが、ケーブルを入れるお金のないマイノリティ向けという側面もあり、日本のアニメでも暴力要素の多いヒーローものは、ここにはいることもある。こちらでは、子供だけをほったらかしにしているので、多少暴力的でもかまわない。しかし、ケーブル・テレビは結構料金が高く、それなりにお金のある家庭でないと見ないので、そういった家庭では、親が子供の見ているものをきちんとチェックする。だから、大人が「これならいい」「自分が見ても面白い」と思えるものでないといけないのだろうと思う。

ここを読むと、アメリカのアニメ市場には、金持ち向けのケーブルテレビと貧乏人向けの地上波大手という明確なセグメント分けがあって、その分割された市場ごとに商品としてチェックされるポイントが違うようだ。前者では、ストーリーやテーマを作りこんで大人でも楽しめることが重視されるが、そういうポイントは後者では評価されない。後者では、粗製濫造でもいいから、手早く安く作って、大人の目の届かない所で放置されている子供の時間を奪うことが商品価値となる。

おそらく、こういうセグメント分けは実際はもっと細かくて、それぞれ評価基準の違う小さな市場がたくさんあるのだと思う。これは随分前のものだけど、カナダとアメリカを比較した次のエントリにも通じる部分だと思う。

アメリカだと、人種によって仕事や生活圏があきらかに違います。タクシーの運転手は黒人で、ホテルの清掃係はヒスパニック系とか。単純労働に白人はいません。もちろん例外も多いですが、経済格差という高い壁をアメリカでは感じます。アメリカは人種のるつぼとよく言われますが、混ざりあうことはないので、人種のパッチワークとでもいったほうがよいでしょう。そういうものはカナダでは特別感じませんでしたので、まさに人種のるつぼです。

この「生活圏」に対応した小さな市場がたくさんあって、アメリカでモノを売るには、どの市場にターゲットを絞るかを明確にして、その市場で評価される項目について改善し、評価されない項目については切り落とすことでコストを下げるといった、徹底したマーケット指向で戦略を練ることが必要なのだろう。

マーケット指向とは、たとえば、次の動画で比較されている、アメリカ製ゲームパッケージのひどさ。

この動画は、文化的な違いから来るテイストの違いについて無自覚的に嘲笑のネタとしている部分があって、おそらく公平な比較になってないと思う。しかし、全体的にアメリカの方がパッケージがチープでいいかげんに作られているということはあるのだろう。

想定している市場で、パッケージ絵の水準が売上と相関しないならば、そこは徹底してコストダウンの対象とする。そういうマーケットを意識した販売戦略が良くも悪くも徹底しているのがアメリカなのだろう。

これと似た問題について、私は次のようなことを書いている。

アメリカの民主主義は、主権者がクラスターを形成することを要求する。クラスターとクラスターがぶつかりあってお互いを削り合う場は用意されていて、よく機能している。たぶんあの国は、人々が集まった国ではなく、州が集った国でもなく、大小さまざまな境界のはっきりとしたデジタルなクラスターが集まった国なのだろう。人々は、自分の好きなクラスターに所属することができる。いくつ所属してもいいし、大半は出入りも自由だ。あらゆるクラスターに対して、誰でもがそれに自分が所属しているか否を、自分の意思以外に左右されず明確に断言することができる。

しかし、クラスターを形成しないと自分は存在しないものと扱われ、特定のクラスターを遠巻きに見守り支援するような方法はなく、自分があるクラスターに所属するか否かについて口を濁す自由はない。

海部さんは、日本のコンテンツの提供者が、自分がアメリカ市場の中でどのクラスターに入ろうとしているのか、その位置づけをハッキリさせて戦略を組んでない、ということを問題視しているように思う。

千と千尋」でアカデミー賞を受賞した宮崎アニメも、2005年に封切られた「ハウルの動く城」では、上映館の数が数十程度の「マニア向け公開」扱いでしかなかった。コンピューター・グラフィックスの質が高く、さらに大量の費用をかけて宣伝する、ピクサーやドリームワークスのアニメにかなわなくなってしまった。「パフィ」のアニメもそこそこ続いているが、そもそも線が粗く、ドライなユーモアのアメリカ風お子様向けアニメで、大量に消費される低コスト使い捨てアニメの一つに過ぎない。パフィにとって残念なことに、これがもう少し上の年齢層に受けていれば、CDやコンサートの売り上げにつながるのだろうが、10歳以下の子供が相手では、こういった派生ビジネスもあまり期待できない。

しかし、私は、そういうクラスター主義、セグメント主義とでも呼ぶべき、発想の仕方自体に問題があると考える。

クラスター同士の平等という政治制度としては評価できるが、クラスターという形以外の人間と人間の関係を排除するという専制がそこにあることも否定できないと私は思う。

そして、実はアメリカ人もこの過剰なセグメンテーションに疲れているのではないかと思う。

アメリカで作られるコンテンツは、あまりにも目的指向で市場の中での評価に対して完璧に仕上がっていて、そんなものばかり見せられていたら疲れちゃうと思う。「オタク」は、nerd系の少年の居場所という意味では特有のセグメントを開拓したと見ることもできるが、それ以上に、クラスターとクラスターの間のスキマ、セグメントとセグメントから落ちこぼれた価値観として受容されているのではないだろうか。

これは、主として、アメリカにおける「オタク」の受容のされ方を町山智浩さんのPodcastで何回か聞いた所から漠然と感じていることなので、これといった定量的なデータを示せるわけではないけど。

なんだかあまりアメリカ人らしくなくてアメリカ人になりきれないような人たちが、よくわかんないものをよくわかんないまま受容しているように感じる。

セーラームーン」はポルノもどきと弾劾されて打ち切られたがファンの署名で復活!

セーラームーンにポルノとしての属性が有るのか無いのかと言えば「有る」と考えるべきだと私は思うのだけど、明確にポルノの市場に向けてポルノ市場の価値基準で最適化されている作品ではもちろんない。かと言って単なる子供向けアニメでもないし、かと言って(宮崎アニメのような水準で)芸術性が高いわけでもないし。

だから、これは、アメリカ人が強制されている大人の顔、表の顔では、正当化することが難しい作品ではないと思うのだけど、それでも評価されて一定のファンを獲得したということの意味は大きいと思う。

パフィーも、日本で伝えられている成功が大袈裟だったとしても、アメリカで何らかのポジションを得た数少ない日本人アーチストが、他ならぬパフィーだったという意味は無視するべきではないと思う。

つまり、パフィーセーラームーンと同じく、非常に Uncategorizable ではないでしょうか。

パフィーは、普通のアイドルではないし、かと言って作詞作曲を自分でガンガンやるアーチストというタイプもないし、パフォーマンスも含めた「現代アート」の文脈で評価されるわけではないし、ファッションリーダーと言えば多少はそうかもしれないけど、何か特定の流行り言葉を代表するようなファッションリーダーではないだろう。

元記事の「Forza2」というゲームの件もそうだ。セカンドライフのように明確に市場を作りセグメントの特性を屹立させていけば、アメリカにだってあのレベルの職人はいくらでも現れると思う。でも、そういうカテゴライズを拒否して湧いて出てくる日本の職人たちの、技ではなくてその才能の無駄遣いを恐れない姿勢、才能を意図的に自爆させる一種の特攻精神に、アメリカ人たちは驚嘆したのではないか。

アメリカで受容される日本のコンテンツは、どこかに Uncategorizable な部分を持っているように私は感じる。

たぶん、アメリカ人だってアメコミ風の濃いマンガには疲れているんじゃないかと思う。自分の選択すべてが自分の所属するクラスターを暗黙に指し示すことになる世界にアメリカ人は住んでいる。仕事や日用品ならともかくリラックスする為には、そういうセグメンテーションの産物から離れたいと思うのではないだろうか。

ただ、そういう弱音、本音は、理論武装なしには人前で公言できないものなのだろう。

サブカルチャーとして、大人のオタクの間で好まれるものというのは私にはよくわからないが、いわゆる「普通のアメリカ人でも目にする、消費する」タイプのメジャー・コンテンツとしては、「one of them」程度だと思う。

これが平均的アメリカ人の見方だと思うけど、こういう見方をしている一般人の前で「私はオタクである」と宣言することは、「普通のアメリカ人」からハミ出してしまうので、なかなか勇気のいることだ。そのために、この市場は見えにくくなってるし、売りにくいものだと思う。

でも、そういう市場が潜在的に存在していることが、わずかでも受容されているコンテンツをよく見ることから推測できる。

要するに、日本のコンテンツはアメリカ市場には受け入れられないが、それを待ち望んでいるアメリカ人はけっこういるのではないかということだ。

しかし「作品としてのアニメ」の黄金時代は70年代だと思う。 当時の作家たちがセックスと暴力を描いたのは客が喜ぶからじゃない。 それが作り手がつきつめて論じたい、訴えたいテーマだったからだ。 アニメや特撮番組を見るのは子供だけだった時代に、彼らは大人の映画やドラマより凄まじいリアリティをブラウン管に叩きつけていたのだ。

だから、たとえばこんなかたちで、アメリカ市場をすっとばしてアメリカ人に直接アピールすることが重要だと私は思う。