弾圧されつつあるダムネットワークという思想

47氏の逮捕はとても法治国家で起きたこととは思えないけど、CD輸入権は、一応選挙で選ばれた議員さんたちが合法的に立法しているわけで、今回の逮捕にあらわれたものが次は合法的な動きとして出て来るものと考えておいた方がいいと思う。

Winnyが可能だったのは、インターネット(パケット交換ネットワーク)という技術の根本にそういう考え方があるからだ。いやむしろ、p2pはインターネットが潜在的に持っていた「ダムネットワーク」という本来の思想を開花させたものである。

ダムネットワークとは技術的に言えば、ネットワークは低機能で汎用的に作って、認証とか信頼性とかそういう難しいことはエンドトゥーエンドでやった方がいいということ。そういう高レベルの具体的なニーズは、それぞれ個別のいろんな事情があってどんどん変わっていくものだから、ネットワーク自体にはそういう機能は含めない方がいいということだ。

ここには重要な思想的含意がある。

ネットワークというのは究極的には人と人をつなぐことであって、人の多様性を意識すると自然とそういう解にたどりつく。つまり、「何が良いことか」「何が正しいことか」みたいな価値判断は、人によって違う。ネットワークがそういう価値判断を含むということは、人の多様性や個別の価値判断の上に、上位の価値判断を置いてしまうことだ。

ネットワークのアーキテクチャを設計する人は「俺がみんなより正しい」「多様性は俺の価値観の中だけで許されるべき」と言っているに等しい。そしてダムネットワークとは、「多様性とその出会いこそが究極的な善である」という価値判断を技術的に表現したものである。それもひとつの価値判断の押しつけであるけど、価値判断の押しつけが無いとネットワークが成り立たない以上、それを極小化しようというのが、ダムネットワークという技術で表現されている思想なのだ。

「出会い」にはさまざまの事故が起こり得るけど、それはエンドトゥーエンドで、つまり、個別に出あった個人同士が解決していって、決してそこから唯一不変の正解を導き出さないでね、とダムネットワークは言っている。なぜなら、今はそれが最高の解に思えても、ある日誰かが、もっといい方法を考えつくかもしれない。その時にその新しい方法を使えないと困るでしょう、ということだ。

そのような「多様で可変である人と人との出会い」というものがうれしくない、という人がダムネットワークを弾圧しようとしているのだと思う。

(参考: 「バカなネットワーク」という思想)