「○○板住人です」というアイデンティティ
2ちゃんねるには、「○○板住人」という言い方があり、Googleで検索してみると14万件もの用例がある。
2典Plus 2ちゃんねる用語サイトで意味を引いてみると次のように説明されている。
ある板・スレッドをよく利用している人たちを指す言葉。
「○○板の住人」のように使用する。
そして、この言葉は2ちゃんねる全体のユーザを指す「2ちゃんねらー」「(略して)ねらー」という言葉と同じくらい使われている。
- "板住人ですが" - Google 検索 -- 549件
- "板住人としては" - Google 検索 -- 1,620件
- "ねらーですが" - Google 検索 -- 874件
- "ねらですが" - Google 検索 -- 386 件
- "ねらーとしては" - Google 検索 -- 298件
- "ねらとしては" - Google 検索 -- 1,850 件
つまり、2ちゃんねるのユーザは、自分を「2ちゃんねるのユーザ」と規定するのと同じくらい、自分を「○○板の住人」と規定しているのだ。
私は、この「住人ですが」という言い方が好きである。なぜなら、そこに自分の所属するコミュニティを相対化する視点が含まれているように感じるからだ。また、そのコミュニティを含む上部の構造を意識してないことが、現代的だと思う。2ちゃんねるには、いくつかの板をグループ化した「カテゴリー」という概念があるが、「カテゴリー」の住人というふうに、自分を規定している人はあまりいないと思う。
これと対照的なのが、「○○組系○○組組員」の方々である。報道で普通このように言うのは、彼らの行動原理が上部の全国組織に支配されているからであり、また、彼ら自身も、「自分は○○組の人間であるが、その○○組は上位の組織として○○組に所属している」ということを強く意識しているように思える。
そして、上位の○○組は互いに対立しつつ、裏社会全体として表社会に対峙している。このように、○○組組員の方々の自己規定は、その所属する組織の階層構造と密接につながっている。
少し前までは、表社会にいる人も大半が、自己の所属する組織の階層構造を強く意識していて、だから、政治的な言語は、そういう階層構造を反映している。「階級闘争」なんて言葉がいい例で、自分の所属する組合から「労働者階級」という全体までのつながりが、何の努力もなくイメージできたのだ。
しかし、今は、「組員」的な自己規定より、「住人」的な自己規定の方がずっとしっくりくる。
ねらーでない人も、「あなたはどういう方ですか」と100回聞かれて、どうしても100回違う答をしないといけなくなったら、「住人」的な「私は○○です」という回答をけっこうしてしまうことに気がつくだろう。つまり、他の板との距離感がどこの板とも等距離であるため、近傍の板とクラスターを形成しにくく、クラスターが形成しにくいので、全体との階層的なつながりを持ちにくいような、そういうコミュニティーへの所属という形で、「私は○○です」と言ってしまう。
政治的な言語が説得力を持たなくなったのは、この「住人」的なアイデンティティに対応できてないからだろう。
と、ここまで読んだ方は、次の図を見ていただきたい。
ポストモダンの階層構造
この図の、「複数のコミュニティ」が「板住人」のことで、「単一のアーキテクチャ」が「(コンピュータシステムとしての)2ちゃんねる」である。
これは、解離的近代の二層構造論2という恐しく難しいタイトルの中身も恐しく難しい文章の中にある図なのだが、単にこの文章にリンクしても絶対誰も読まないので、ちょっと工夫して導入部を書いてみた次第である。
21世紀の社会秩序や権力の性質について考えるのならば、小泉について語るよりGoogleやSNSについて考えたほうがいいのではないか。なぜならば、ブッシュや小泉の話題は、もはやあるコミュニティ(ひとつの国家、ひとつのマスメディア)のなかのうわさ話でしかないからだ。
つまり、いわゆる政治とは今や「議員板住人」同士の内輪話でしかないということだ。しかし、本来の政治とは全体のことを考えるもので、つまり、全ての「板」を合わせたシステムについて考えたり、もっと重要なこととしては、その「板」全部がのっかっている下部構造つまり、「アーキテクチャの層」について考えるべきであるということである。
それよりも僕たちが関心を向けるべきなのは、そのようなうわさ話が上部構造でのシミュラークルに変えられてしまったあと、脱政治的=脱人称的な秩序形成がどのように進化するかだ。
僕としては、そちらについて考えるほうが、一見「非政治的」「反政治的」に見えたとしても、はるかに政治的だと思う。
東浩紀さんは、「議員板住人」同士の内輪話のような「政治的」というのはやめて、もっと違うレベルで「社会の全体像」を描こうとしているのだと思う。
実はこれを読んでやっと私も理解したのだが、これは、創発的権力と私が言っているのと、ほとんど同じ問題意識だと思う。
「創発的権力」は、私の造語癖の中でも、一番パッとしない言葉で、それにもかかわらず、作者は必死でプロモートしているのだが、ちっとも言及されない。東浩紀さんももっと知られていいと思うのだが、いかんせん、文章や用語が難しすぎますねえ。
まあ、それはともかく「政治」が遠く縁の無いものと感じられるのは、「○○板住人ですが」的アイデンティティを汲み取れる政治的な言葉が無いからだと思う。そして、それは放置しておいていいことではない。
また、少し前の人や少し上の世代が、あまりにも煩雑に政治的なことを語るのを見て、「あいつら全員政治板住人か」と思うのは間違いで、あいつらみんな「組員」的アイデンティティの持ち主であって、古い政治的言語はそれに合うように出来ているだけの話である。
言語を組み換えれば、政治はずっと身近なものになる。
思想哲学の役割はそういうことで、だから、誰もが思想哲学嫁とは言わないが、もうちょっと気にして応援してほしいものである。というか、まず読んで玉砕してみて、「わからん」「しっくりこない」と何度でもおかわりしたほうがいいと思う。