禁酒法と禁「世間」法

お知らせするのが遅くなりましたが、技術評論社のWebマガジン「エンジニアマインド」で次の二本の記事が公開されています。

今回は、「空気」と「世間」という日本教の二大キーワードについて、仕事との関わりから考えてみました。

この中で紹介しているこの本は、特にオススメです。

世間学への招待 (青弓社ライブラリー)
世間学への招待 (青弓社ライブラリー)

この「世間学への招待」は論文集なのですが、冒頭の阿部氏の講演とそれに続く3本の論文が、「世間」というコンセプトのコンパクトで明解なまとめになっているように感じました。

この「世間」というコンセプトは、日本の社会のさまざまな問題について、整理する切り口を提供してくれると思うのですが、ここでは、最近問題になった談合利権の問題について考えてみたいと思います。

日本の社会は、「社会」と「世間」という二つの独立した原理で動いていると阿部氏は言います。

日本の社会は明治以後に欧米化したといわれている。欧米化とは近代化という意味である。近代化によって日本の社会は国の制度のあり方から,司法や行政,郵政や交通,教育や軍事にいたるまで急速に改革された。服装も変わった。

近代化は全面的に行なわれたが,それができなかった分野があった。人間関係である。親子関係や主従関係などの人間関係には明治政府は手をつけることができなかった。その結果近代的な官庁や会社の中に古い人間関係が生き残ることになった。

近代化された法制度や経済が「社会」、古いまま残った人間関係が「世間」です。日本の社会は、「社会」と「世間」という独立した二つの原理によって動いています。この観点は、いろいろな問題に応用できると思います。

談合問題がなかなか無くならないのは、「社会」は談合を禁止しているが、「世間」は逆に談合のようなものを求めているからだ、と考えるとよくわかります。

冠婚葬祭が国会議員にとって大きな仕事だと言います。土日に地元に帰ると毎週のように結婚式に出席しているとか。国会議員は、そういうことをマメにこなさないと、なかなか選挙で当選できないそうです。

有権者は、「世間」を維持する為のそういう行事の中で、国会議員に一定の役割を求め、それをきちんと行なうかどうかで評価し、それが投票行動につながるわけです。

もちろん、支持者と会話し国民一人一人の生活の状況を知ることは重要なことですが、なぜ住民集会でなくて結婚式なのか。

民集会では「社会」のレベルでの民意しかわからず、重要なことは「世間」の中にあり、政治家は「世間」のスペシャリストであるべきだ、と多くの人が考えているからでしょう。

談合というのは、特定の悪の権力者が暴力で上から押さえつけて行うようなものではないでしょう。そうではなく、同業各社の親睦という「世間」の中から自然に生まれてくるものです。だから、冠婚葬祭の延長で、政治家がその中で一定の役割を果たすことを求められてしまいます。

もちろん、中には、明確に「世間」の暗黙のルールからも逸脱した悪質な汚職もあるでしょう。しかし、あるレベルまでは「世間」は談合を求めていて、多くの政治家はその求めに答え、グレーゾーン的な金銭授受が普通に行なわれているのが現状だと思います。

政治資金規制法は、「世間」と「社会」の矛盾の中で、そこそこうまい落とし所を見つけて作られた法律のようにも見えますが、運用の仕方によっては、禁酒法のような禁「世間」法になってしまいます。

これを変えるなら、先に「世間」のあり方を変えた上で、それを少しづつ社会のルールである法律に反映させていくべきです。

もし、「世間」のレベルで変化が起こらずに、「社会」のルール、つまり法律だけで談合を禁止しようとしたらどうなるか。

「実体のない政治団体」についての検察の説明いかんでは、政治資金規正法によって検察が摘発し得る範囲は無限に広がる。そのような団体から政治献金を受けた政治家は、いつ何どき検察の摘発を受けるか分からない。実際に摘発されなくても、それは検察に「お目こぼし」をしてもらっているだけであり、まさに、検察が政治に対して圧倒的に優位に立つということに他ならない。

禁止されていても「世間」をしない人間は政治家になれず、政治家になる為に人より多く「世間」をやると法律を犯したことになる。そして、誰を摘発するかは法律と関係なく検察が決めることになります。

それは禁酒法と同じような法律になるでしょう。つまり、誰も守れない不自然な法律があるために、法律の外で社会のシステムができてしまう。ギャングが支配するアウトロー(out of law)の社会になってしまいます。

私は、酒も世間も嫌いなので、個人的にはどちらも無くなってほしいと思っています。法律で一律に禁止して無くなるものならそれが一番いいと思います。

でも、やめられないものを禁止するとギャングの支配する世の中になるので、それはまずいと思います。ギャングだって検察だって、中にはいい人もいるだろうし、ひょっとしたらいい人の方が多いかもしれませんが、法律の外でエバる人がいる、そういう世の中はいやです。

飲酒も「世間」も、大半の人はうまくやっていて、全体としては、害よりは益の方が多いでしょう。どちらも、明らかに害となるケースは存在しますが、害の部分を法律で処理しようとするのはうまくいかないと私は思います。

おそらく、アルコール依存症の人は、どれだけ厳罰化しようと、どうにかして酒を手に入れ、何としても酒を飲もうとします。必要なのは、法的なアプローチではなく、治療的なアプローチと予防措置です。

それがどういうメカニズムで起こるかを解明し、酒が本人の生活にどういう影響をもたらしているか、それを納得させる。酒をやめようという自発的な意思が無ければ、強制的な措置は逆効果です。

もちろん、未成年の飲酒を禁止したり、酒の販売を管理するといった法的な手当ても必要ですが、それらは治療的アプローチのサポートに回るべきであり、主役になるべきではありません。

日本の社会の中で阿部氏の言う「世間」というものが、大きな役割を果たしていることは間違いなく、その役割の大きさと比較して、この問題が言語化されてないことも確かです。

「世間」の中での一つの役割を政治家に求める一方で、「世間」と関係ない「社会」のルールである法律の遵守を求める有権者は病気のように私には思えてしまいます。

この病気を治療するには、まず、「世間」という原理について我々はどうしたいのか、残したいのか無くしたいのか、それをきちんと議論すべきだと思います。


一日一チベットリンクチベットをめぐるニュースや語り:2009年3月 EP: 科学に佇む心と身体