検察出身者がライブドア捜査を批判し司法の構造的問題を明解に指摘する本
不二家の信頼性回復会議の議長として、TBS等のマスコミ報道の問題点を明解に指摘した、郷原信郎氏の著作である。企業のコンプライアンスだけでなく、司法のあり方も含めて幅広いテーマを扱っているが、何についてもきわめて論理的に是々非々を分析するスタイルが印象的である。そして、一般的な論者が避けて通ったりあいまいに一般論で逃げたりする所にも、一切の躊躇無く切込んでいく。
たとえば、ライブドアや村上ファンドの摘発において、検察側の論理にはかなり無理があると郷原氏は言う。
ライブドアの粉飾決算は、(中略)純資産自体を偽ったわけではありません。会社に入ってきたお金の会計処理の方法に関する問題です。これが不正だといっても、最近の会社法の考え方からいえば、その違法性の程度は低いものです。(P60)
ライブドア事件での「劇場型捜査」は、隠されていた巧妙な違法行為を暴き出し、誰もが知らなかった重大な犯罪事実を明らかにしたというものではありません。検察の摘発は、以前から指摘されていたライブドアの経営手法の形式的な違法性を問題にしただけでした。(P62)
村上ファンド事件は、全体としてとらえれば、どう考えてもインサイダー取引とは言えない事件です。ライブドアによる大量買いの前に村上側が株を買ったという事実だけを切り取って、インサイダー取引の要件に無理に当てはめようとすると、プロの投資家が市場で行なう通常の行為までが該当することになりかねないのです。(P69)
著者の郷原氏は、東京地検特捜部、長崎地検次席検事を歴任された検察出身者である。現在は大学で教鞭を取っておられるが、検察から派遣された形になっており、いずれは検察に戻ることになっているらしい。
法律家として間違っていることは間違っていると言うのは当然のことだが、自らの出身母体に対してここまでストレートに言えるというのは、やはりすごいことだと思う。
ただ、これは、ライブドアや村上ファンドのような企業を放置せよ、と言っているわけではない。検察が無理をしてしまったのは、背景として、司法のあり方についての構造的な問題があるからである。その問題意識がこの本の核になっている。
それは「日本では、法律や司法の運用と社会の実態に乖離があり、そこをさまざまな非公式のシステムが補なって来た」という視点である。そして、その非公式のシステムが機能不全を起こしていることに対し、根本的な議論が行なわれず抜本的な対策がされないことから、さまざまな社会問題が発生しているということだ。
非公式のシステムとは、談合や行政指導や証券市場の恣意的な運用等だ。これらは、法律的な根拠はなく場合によっては違法であるが、一定の社会的機能は果たしており、社会的にも一般通念として容認されてきた。
司法は、社会や経済の現場で起こる判断の難しい紛争を直接的に裁くことをせずに、その調整を非公式システムにまかせ、殺人や強盗のような明確な悪を裁くことに力点を置いてきた。
たとえば、公共工事で手抜き工事を行なう企業は、発注者が法令に基いて処罰するのではなく、談合システムの中の業界団体の集団的意思決定の中で排除されてきた。手抜き工事は法的に定義するのは難しく、同業者が見破るのは容易だ。司法が建設工事の技術的な内容に立ち入った判断をするより、ずっと効率的で正確な判断ができる。
しかし、この状態が続いてきたことで、司法の機能や法令と社会の実態の乖離は進んだ。今の日本の問題は、談合のような「法的根拠がないけど半ば公式なシステム」が劣化して、社会の変化に追いつけず、これまで果たしてきた役割を果たせなくなったことだ。そして、その肩代わりをするだけの機能や人員が司法の側にも無い。法整備も進んでない。それが現在の状況である。
だから、「合法だけど社会的に許されないこと」や、「違法だけど社会的に必要とされていること」がたくさんある。
「合法だけど社会的に許されないこと」の例としては、パロマ工業の湯沸し器の事故対応にも触れている。
パロマ側の対応は、少なくとも「法令遵守」という観点からほとんど問題はなかったと言えます(引用者注:法的には直接責任はほぼ修理業者にある)。ですが、自社が製造した商品に関して悲惨な死亡事故が相次いでいるという事態において、メーカーとして果たして適切だったかというと、決してそうとは言えません。(P92)
この本のタイトルの「『法令遵守』が日本を滅ぼす」とは、社会的要請を考慮せず法令の条文の詳細のみにこだわった「法令遵守」では、企業は社会的責任を果たせないという意味である。それどころか、批判に対して企業が法的な正当性のみに依存した対応を取ると、より社会的責任を放棄することになる。
パロマ側は、民事、刑事の責任回避のための訴訟対策を行なうという、「法令遵守的対応」をとり続け、それが、メーカーとして必要不可欠な事故再発防止のための社会的責任を果たすことを妨げてしまいました。
つまり、日本のように社会の実態と法律に乖離がある国では、法律の背後にある「社会的要請」を、企業の側が常に意識して、それに応えていくことこそが本当のコンプライアンスであるということだ。
そして、もちろん司法の側も社会の動きに合わせていくことが必要だが、それは検察も発想の転換が必要だと郷原氏は言う。冒頭に引用したライブドア捜査の批判は、その一環である。
そのような現状の中、検察に求められるのは、自らが主役になって悪党退治を行なうことではありません。経済社会全体で法の機能を高めていくための原動力を果たす「経済検察」として、経済社会の実態を的確に理解し、公正取引委員会や証券取引等監視委員会などの専門機関も含めた法執行の中核としての役割を果たすことです。
私としては、ネットに関する問題の治安維持について自分が考えていたことに非常に近く、この考え方に非常に強く同意する。
そういう方向ではなくて、司法は、むしろ自分たちの役割を限定して行くべきだと思う。いかに価値観が多様化しても(今のところは)殺人や強盗ならば、それをきっちり裁くことには大半の人が納得する。そういうふうに裁くべき範囲を限定して、そこできちっと仕事をしていくことが必要なのではないだろうか。
つまり、「小さな政府」と同様の「小さな司法」「小さな裁判所」である。もちろん、これは「官から民へ」というわけにはいかないので、公正取引委員会や証券取引等監視委員会等の司法の外にある機関に「裁く」機能を分散していくことになるだろう。
紛争処理の多元化と正しさという利権に書いたように、これはこれで新しい利権を生む危険性も否定できないが、司法はこのような司法的機関が正しく機能しているかどうかチェックし裁く機能、つまり「メタ司法」の機能に自らの責務の重点を置くべきではないだろうか。
談合や行政指導のような「違法だけど社会的に必要とされていること」については、単に違法行為を排除するだけではなく、そういう非公式システムの機能不全に注目し、それを何で補っていくのかという視点も重要だと郷原氏は言う。
国家公務員倫理法の遵守が徹底されたことによって、官僚は経済社会の実態や動きについての情報源を失いました。官僚は抽象的な理念や理屈にこだわるようになり、社会的基盤や司法制度などが根本的に異なる外国の制度をそのまま輸入するような法改正が行われることが多くなりました。
これも、私がPSE法問題について感じていたことに非常に近い。
官僚や族議員と「団体」との癒着を批判するのは、「公正さ」の観点からは当然のことである。しかし、そこを批判して「団体」と官僚を引きはがすことで、官僚は情報源を失なう。PSE法の運用が迷走するのは、適切な情報源を失なったら、いかに優秀な官僚と言えどもタダの人でしかないことの証明だと思う。
ということは、官僚が「団体」の代わりに何を情報源としたらよいのか、それを考えないと、こういう形の問題は解決しないと思う。
このように、この本は新書というボリュームには収まらない深いテーマに鋭く切込んだ本であり、日本の社会にあり方について、経済や司法という単一の枠を超えた根本的な考察を加えている本であると思う。特に、私のブログを読んでいただいている人には、強くおすすめしたい。
それと、もう一つ興味深かったのは「法律家は巫女のような存在」という章で、「法律家は巫女のように非日常的な問題の対応のみ求められてきた」という点に日本の独自性のルーツを探る所だ。ここも私の持論に通じるものがある。
随分とおかしなことを言う人のような気がするが、実は、平安貴族も似たようなことを言っていた。歌やサロンや恋愛や加持祈祷が貴族の仕事と思っていて、エコノミーは「公的」な仕事でないと考えていた。
そこでエコノミーを引き受けたのが鎌倉幕府だ。武士というのは、もともと貴族の「家事」を担当する人で、現地の責任者をやっていた人だ。この人たちがトラブっても、それがどれだけ深刻な問題でも、平安貴族の目から見ると、それは「私的領域」なのである。だから、現場にまかせて何もしなかった。
欧米の「公」は世俗的権力であって常に教会と戦ってきたので、「公」と「聖」は反対のカテゴリーに入る。「いいことを言うけど、役に立たない」人では、教会と戦えないので「公」の一員となれない。
しかし、日本の「公」は天皇という宗教的権威と結びついていて、それのアンチテーゼとして「私」つまり武家政権ができた。だから日本では「公」=「聖」であって、企業の中では、「公」=「聖」という属性を本社が担い、そこは美しく空虚なことが言えれば実効性は問われない。「責任ある人」は「私」である事業部(現場)に所属する。
談合システムの機能と幕府や武士に求められた役割には、近いものがあると思う。どちらも公的な政府や空虚で実態とかけ離れた法律とは別個に、私的で実効性の高い自発的な秩序を担うものだ。その根幹には「きれいごとでは世の中動かない」という確信犯的なプライドがある。
そのプライドがうまく働けば、セレモニー的な「公」の政治をうまく補完するが、悪く出ると、統一的なビジョンやトップダウンの改革への根強い抵抗勢力となる。
この観点から郷原氏の問題提起を言いかえれば、「公」の領域と「私」の領域の連結のあり方を見直せ、ということになるだろう。司法は「公」から「私」に降りてくるべきだし、企業は「私」に閉じているのをやめて「公」の一員として自分を再定義せよ、ということだ。
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