デュープロセスと2ちゃんねるは限りなく頼りなくても絶対必要なもの

日本人のための憲法原論
日本人のための憲法原論

この本に面白いことが書いてありました。

「刑事裁判とは、検察、すなわり行政権力を裁く場である」というのは近代裁判の大前提なのですが、これもまた日本人のよく理解できていないところです。(P43)

刑事裁判において裁判官は、「真実の探求」なんてことはこれっぽっちも考えてない。被告のことなんてどうでもいい。気にしているのは検察のみ。ひたすら、検察の言うことに間違いが無いか、鵜の目鷹の目でチェックする。

だから弁護人はいくら間違えてもいい。関係無い所に何回ツッコミを入れても問題ない。めくらめっぽうで100個ツッコミを入れて、そのうち一つでもまぐれ当たりして検察の言うことに矛盾や嘘が発見されたら被告側の完勝、検察側の完敗だそうです。

裁判官はそういうジャッジをする。検察が100点を取ったかどうかだけを見てればいいんです。

「へえー」と思って、ちょうど話題になっているO・J・シンプソンの裁判をググってみたら、同じようなことが書いてありました。

私は審議を先に進める前に「有罪」か「無罪」かの無記名投票をやろうと提案しました。すると、結果は「無罪」が十票、「有罪」が二票でした。「無罪」 (ノット・ギルティ)というのは「無実」とは違い、犯罪を犯したかもしれないが、証拠不十分であるために「有罪」にはできないという意味です。これは「無実」の人を「有罪」にしないためには非常に重要なことです。

一般の陪審員も、次のような意味の「デュープロセス」をしっかり理解してるんですね。

母法であるアメリカにおいては、単なる「法の手続」ではなく「法の適正な手続」を必要とするということから、刑罰を科する手続そのものが「適正」でなければならないということも要求しているとも考えられています。

手続きが「適正」でなかったら、被告は「無罪」。「無罪」とは、単に、検察の言ってることが完璧ではなかったという意味であって、極端に言えば、被告が悪いことをしたかどうかとは何も関係がないという話。

Wikipediaにも同じことが書いてありました。

刑事裁判は合理的に疑問があることを弁護側が示せば無罪であり、合理的疑問を超えなければ検察側は有罪に持ち込めないのだが、民事裁判では証拠の優越性が問われ、50.1%の優の証拠を示すことが勝敗の鍵となる。

しかし、これは、目茶苦茶極端なハンディキャップですね。弁護側は何回間違えてもいいのに、検察側は一回でもミスしたらそれで負け。弁護側が嘘ついて追及してそれがバレても結果的に検察の嘘を一つ暴くことができればOK。格闘技にたとえたら、弁護側が検察をボコボコにして10ラウンド立っていたら勝ち、でも検察は一切反撃してはいけないという試合のようなものです。

なんでそうなっているかと言えば、「国家権力」というのは恐しいもので、それくらいのハンデをつけてちょうどいいという認識があるからだそうです。

鎖のついてないフリーの「国家権力」の恐しさと比べたら、O・J・シンプソンの一人や二人くらい何でもないってことですね。

それで、そこまで怖がるなら「国家」なんてそもそも無いほうがいいとか思ってしまうのですが、そうはしない。

私なりにこれについて考えてみたんですが、こんなことではないかと。

  1. 「民意」がそのまま「国家」になっていれば理想である
  2. しかし生の「民意」は機能しないので「国家」という制度は必要である
  3. 「制度」を「民意」が制御できるように「デュープロセス」が存在する

要するに「民意」はケチをつけるのは得意なんだけど、ちゃんと仕事をすることはできない。仕事をさせるのは「制度」という別の人にまかせるんだけど、ケチをつける権利は最大限保証する。

ここまで考えて思い出したのが、次の有名な言葉。

2ちゃんねらは敵に回すと恐しいが味方にすると頼りない」

「民意」というものの二律背反性に対して、西欧は「デュープロセス」を用意したが、日本では2ちゃんねるが生まれたということかと。

デュープロセス(における国家をチェックする側)も2ちゃんねるも、何回間違えてもいいんです。千に一つ、万に一つまぐれ当たりがあれば。そのまぐれ当たりに期待して、無茶苦茶なハンデ戦をさせると丁度いい具合になる。

生の「民意」には仕事はできないけど、最大限の権力を与えるべきである。

それが、長い苦闘の末にデモクラシーというものを勝ち取った西欧の歴史の教訓ではないかと。

匿名掲示板を規制するとしたら「民事」と「刑事」に分けて、「民事」用の板は規制するとしても、「刑事」板の方はフリーにしておくべきですね。