ダライ・ラマから学ぶWEB2.0時代のマーケティング
「ダライ・ラマ」は今年前半最大の世界的ヒット商品だと思う。そして、この「商品」が全世界の人に訴求したポイントは、ビジネスに携わる者全てに貴重な教訓を与えてくれる。
http://youtube.com/watch?v=TQqePE7OR08
- YouTube - Dalai Lama talks in Japanダライラマ法王記者会見@成田 Part.2of5
- YouTube - Dalai Lama talks in Japanダライラマ法王記者会見@成田 Part.3of5
- YouTube - Dalai Lama talks in Japanダライラマ法王記者会見@成田 Part.4of5
- YouTube - Dalai Lama talks in Japanダライラマ法王記者会見@成田 Part.5of5
これは、ジョブズのプレゼンと同じく、業界関係者必見のプレゼンである。
弱いメッセージが強いというWeb2.0時代の逆説
- チベットが中国の一部であることは経済的には良いことだ(Part2 3:00あたり)
- 中国は21世紀の super power (超大国)となれる潜在性がある(Part5 4:00)
- 中国にはオリンピックを開催する資格がある(Part1 6:50)
- (あり得ないだろうが)もし開会式に招待されたら、壮大なパフォーマンスを楽しみたい(Part4 8:10)
上記の会見で、ダライ・ラマは実際にこのようなことを言っている。
そして、中国政府に求めるのは、内政面での自治のみであり、それはチベットの文化と伝統を保存する為にはどうしても必要なことだと(Part2 4:00)。一方、チベット人や支援する人たちには、(彼らの意思、彼ら自身の決断を尊重しながらも)非暴力を求めている(Part1 8:00)。
これはチベットの現状を考えると、非現実的と言えるくらいの、弱い主張だと思う。
そういう主張をしながらダライ・ラマは、逆に中国に対して「現実的になれ(Part5 2:50)」と言う。「現実的になれ、今は21世紀だ。透明性と道徳的な正統性がなければ調和のある社会は築けない(Part5 3:20)」
確かに、「非暴力」というダライ・ラマの弱いメッセージの方が、世界的に共感を集めている。
ありとあらゆる主張が飛びかっているWebの中では、強いメッセージは強い反動を呼び、互いに打ち消しあって遠くまで届かない。
残るのは、非暴力のような弱いメッセージだ。弱いメッセージは打ち消しようがない。打ち消しようがないがないから、ゆっくり広まっても結局は世界中に広まる。
非政治的なメッセージが政治を動かし、非営利的なメッセージが経済を動かすのが現代という時代だ。そういう時代に、現実的なのは、強いメッセージではなく弱いメッセージを発することである。
「私を悪魔だと言う人もいるけど、私が悪魔に見えますか。私の頭には角が生えていますか」と言って、ダライ・ラマは、頭に指で角を生やす真似をしておどけてみせたりする。(Part2 7:15あたり、ここは特に必見!)
そして「判断するのはあなた方です」と言う。
堂々と「主役はYou(あなた方)だ」とかそんなことを言うあなたはネット業界の回し者ですか?とツッコミを入れたくなったけど、積極的に相手の判断を求める、このものの言い方は、実にWeb2.0的だと思った。
暴力で長期的に勝つことは不可能ということは普遍的な真理だけど、弱いメッセージが速く広まっていくというのは、Webの時代ならではのことだと思う。
競合相手の強いメッセージに乗せて、自分のメッセージを広めよ
「ダライ集団」という言葉を、かなりの人が耳にしていると思うけど、この言葉を広めたのは中国政府だ。
この言葉が広まるとどうしても、「ダライ・ラマ」という名前も、より有名になってしまう。いったい「ダライ集団」とは何かと検索したら、どうしてもチベット亡命政府の主張を目にすることになる。
そこでどちらの主張を信じるかというのは別の問題だけど、「ダライ集団」と言っている人が、チベットやダライ・ラマへのアテンションを集めていることは間違いないだろう。
もちろん、この前提として、相手にとって無視できないポジションを得る必要があるわけで、そこまで行くのも難しいことだと思うけど、弱いメッセージを持っている側は、無視できないポジションまで来れば、それだけで有利になるということは確かだ。
コンテンツは「個人的な対話」にしたてあげよ
上記の会見の冒頭で、ダライ・ラマは「みなさんの顔をよく見たいので、フラッシュはやめてくれませんか」と言っていた。(Part1 0:30あたり)
そして、質疑応答で質問者が発言している時には、必ず、通訳の声に耳を傾けながらも、じっと発言者の方を見ていた。
記者の質問は個人的な興味でしているわけではなく、メディアとしての特定の機能を果たしているに過ぎない。もちろん、当代一流の知識人であるダライ・ラマにはそんなことはよくわかっているだろう。
でも、目の前に人がいて人が喋っている以上は、それは「機能」に向けて一方的にメッセージを垂れ流すのではなく、そこにいる個人との対話になる。
そういう姿勢がよくわかる会見だ。
シンプルでブレないメッセージ
ダライ・ラマには全世界の注目が集まっているのと同時に、チベットの人たちにとっては、その発言の一言一言が、我々には想像もつかないくらい重いものなのだろう。両方の視線を考えると、当たり前の質問に対するあたり前の回答も、綱渡りのような危うさが常につきまとうことになってしまう気がする。
しかし、その発言は明解でわかりやすい。
その主張のベースは「人権」「言論の自由」「法治」であり、そこには一切ブレがない。
「騒乱の中で略奪のような犯罪行為をした者がもしいたとしたら、その者は、法律に従って罰せられるべきです。しかし、非暴力的に政治的な主張をした者は、そういう者とは違う。ここはしっかり区別を置くべきです(Part3 5:20)」
「騒乱は『ダライ集団』が背後で策謀したことだと中国政府は言う。ならば、国際的な機関がチベットに入ってそこを調査してほしい。私は事件当初からそう言ってきた(Part3 4:00)」
「言論の自由がないことがチベット問題の根本だ(Part1 8:30)」
ダライ・ラマは、西欧的価値観と仏教的価値観の重なる所に立ち、常にそこから発言している。立ち位置が決まっているので、通訳を介して臨機応変なやりとりをしても、発言が一切ブレないし、意図的な曲解を除いていは誤解が広まることも少ない。
それに、自由な質疑応答を無編集で流しても問題がない。
あたり前で難しいことなのだが、「シンプルでブレないメッセージ」を発することの重要性について、改めて考えさせられる。
モノを売るな、人を売れ
それにしても、ダライ・ラマの会見における当意即妙なやりとりは、見ていて飽きない。
チベット支援の輪の半分くらいはダライ・ラマのファンクラブだと思う(私もそうかもしれない)。特にハリウッドスターをはじめとするアーチストや文化人はその傾向が強いような気がする。
ちょうど、MacBook Airが、ジョブズのファンクラブの会員証であるようなものだ。
もちろん、これにも大前提として、売るに値する人がどこにいるのか、という問題があるけど、たまたまそういう人がいる場合には、まずその人を主力製品として売り出すこと検討すべきである。
脳化社会の外にソースを確保すべし
そして、これら全てのことの背後に、ダライ・ラマご本人のゆるがない篤い信仰心と、チベット仏教の伝統があるのは間違いない。
もちろん、これは宗教者として類稀なる個人的資質があってのことだろうが、成人するまで育て、その素質を開花させたのは、チベットの僧院の中での(宗教的指導者としての)エリート教育である。
そこに、政治的なセンスを含む西欧的価値観と教養が融合しても、軸が全くブレてない。全く異質なものを無理なく取りこむことができる、深い伝統があると見るべきだと思う。
実際この会見の中でも、「たくさんの人が殺されている」とチベットの現状を切実に訴える場面もある一方で、豪快に笑う場面もたくさんある。常に率直に語るが相手を抑えこむようなそぶりは全く見せない。もちろん、チベットの人が殺されたりひどい目にあっていることがどうでもいいわけでもないし無理をしているわけでもない。大悲(コンパッション)という心は別の次元にありつつも、現実世界では彼らを救う為に最も有効なメッセージを発信し続ける。本物の信仰を貫くというのはそういうことなのだと思う。
人間として凄すぎて、さすがにここからは教訓のひねり出しようもないが、それでも強いて言えば、やはり、脳の中以外に軸足を持つ人は強いということになる。
言葉やお金というシンボルは全て相対化し、しかもその相対化する速度が加速しているWeb2.0時代だからこそ、そういうものと無縁の世界における価値の重要性が増しているのだろう。
一日一チベットリンク
佐藤優氏がチベット問題についてインテリジェンスの視点から語っている番組だ。
騒乱が始まる前の1月末の時点でチャールズ皇太子はいちはやく開会式キャンセルを決定していた。これは、イギリスのインテリジェンスがおそらく衛星を使って、チベットの情勢が緊迫化していることをつかんでいたからだと佐藤氏は読んでいる。(死者500人説のソースもこのあたりか?)
同時に、リアルタイムではこの重要な情報の意味に気がつかなかったという反省も口にしている。
佐藤氏も言うように、「何かあるとしたらチベットでなくウイグル」という思いこみは、中国当局も含め多くの人が持っていたと思う。非暴力を基本に独立でなく自治を要求するという穏健なダライ・ラマの路線が、具体的な力となる見込みは少ない、と誰もが考えていたのだろうか。