ホリエモン判決で東大生はどちらに向かうか?
東大生とは「頭が切れてハードワークを厭わない若い人たち」を代表させているつもりだけど、ホリエモン逮捕は国策逮捕だから、単独の案件として正当性があるかないかも大事だけど、それより、国から国民へのメッセージとしてこれによって何が伝わるか、そういう「頭が切れてハードワークを厭わない若い人たち」がこれを見てどう考えるか、ということも大事だと思う。
「頭が切れてハードワークを厭わない若い人たち」がホリエモンを反面教師として、ちゃんとしたベンチャー経営者を目指してくれるなら、そう問題はないけど、そうはならないだろう。「頭が切れてハードワークを厭わない若い人たち」はホリエモンを反面教師として、できるならば逮捕される側でなく逮捕する側になることを目指して、そういう所に彼らのエネルギーを使うのではないだろうか。
あの判決が国民から全面的に支持されているとも思えないけど、あれを見て暴動が起きないのは、日本には徳治主義を信じている人が多いからじゃないかと思う。
儒教の理想の政治は、孔子が唱えた「徳治主義」であった。君主の徳が高まれば、国民もそれに応じて道徳的になり、国家は平穏に治まるという思想である。
「地震や飢饉等の天変地異も君主が駄目人間だから起こる」というのが徳治主義である。上に立つ者が人格的に立派な人でないと悪いことが起こるという迷信がその本質だと思う。
私の考えは違う。上に立つ人は、上の役割ができればよい。つまり預かった金や人や組織というリソースを正しく運用できればよい。その能力さえあれば、性格が悪くても陰で悪いことをしててもうさんくさい奴でもかまわないと私は思う。
ホリエモンの実刑判決を支持する人は、彼が預かったリソースを正しく運用できなかったから批判しているのではなくて、彼がうさんくさい生意気な奴だから非難しているように見える。
私はこのブログで繰り返しホリエモンを支持しているが、それは、私の目にはどう見ても彼がうさんくさい生意気な奴に見えるからだ。三木谷氏のようなジジイころがしタイプでなく、うさんくさい生意気な奴が成功して経済を牽引してくれれば、徳治主義の迷信を信じる人が減ると思って期待していた。
頭が切れる人たちは、抜け目なくそのことに気がついているだろう。自分たちが出世して多くのリソースを運用できるようになりたければ、徳治主義の枠組みの中で動くことが必須だと思うのではないか。あるいは「成功する為には何より失敗しないことが重要だ」というメッセージとしてあの判決を受け取ったかもしれない。
直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。という梅田さんの意見にはもちろん賛成だけど、成功することより失敗しないことを望んでいる若い人たちには無力だと思う。失敗したくない人は、褒められるより貶されたいだろう。自分の粗探しをしてくれることをむしろ自分から望むだろう。
逆に言えば、日本人が人を褒めないのは、国民性ではなくてシステムの問題だと思う。
人を褒めるより貶した方が相手にとってプラスになるから、つまりリスクを取って成功することへ動機づけるより、失敗を減らすようなアドバイスが有効であるからそうなっているだけの話だ。そういうシステムが有効だから、それにそって行動を最適化しているだけの話である。
そう考えると、絶望的になる必要はないかもしれない。システムが変われば、新しいシステムに適応して行動も変わることが期待できるからだ。
まずは、上に立つ人を評価する時に、人格でなく能力やパフォーマンスで評価する癖をつけることが重要だと思う。「頭が切れてハードワークを厭わない若い人たち」には、シビアな現状認識を持つのと同時に、これは変えることが充分可能なシステムの問題であることにも気がついてほしいと思う。