<帝国>に対抗する新しい<国語>が2ちゃんねるで生まれている

はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。

最初にこのコメントを引用して批判している記事を見た時には、誰かのイタズラだと思った。何者かが巧妙に梅田さんのふりをして書いたものを、本人の発言だと思いこんで批判しているのに違いないと考えた。

電車の中でiPhoneで流し読みしている時に見た記事だったので、すぐに確認することはできなかった。「何かtwitter脆弱性があったのかなあ、それとももっと単純なトリックだろうか。mochioumedaじゃなくてumedamochioが本物じゃなかったっけ?まさか、アカウントを乗っ取られたなんてことはないよな。そうだったら、これはイタズラじゃ終わらないぞ、業務妨害になるんじゃないの」などといろいろ考えて、帰ったらすぐにどういうカラクリかつきとめようと思っていた。

それで、帰宅して本物だと知った時には、すごくビックリした。そのまま今でもまだビックリし続けている。私にとっては、この発言こそが理解不明である。

互いに理解不明である同士のコミュニケーションが成立することがWebの本質だと思うからだ。Webがなかったら、自分にとって理解不明な人は見えなくて、相手からも自分のことが見えない。Webがあることで互いに相手が見えるようになって、相互作用が発生する。誤解があっても何らかの相互作用があれば社会というものは成立する。(本当は理解なんてめったにないのにそれでも社会は回っている)

今までの社会の中には、誤解を隠蔽して一切の相互作用が起こらないようにする仕組みがあちこちにあるけど、理解不明の相手が見えないそういう社会の方がよほど危いと思う。

それで、「これは釣りである」として、「梅田さんはよほどその本を読んでほしかったのだろう」と考えて自分を納得させるしかなかったが、それにしてもあまり良いことだとは思えない。

実際に「日本語が亡びるとき」を読んでみたら、「読んでもらいたい」という気持ちは多少わかるような気もしたが、同時に、梅田さんの「釣り」によってこの本は間違った注目を集めてしまったように感じた。

この本は、文学として読むべき本だと私は思った。

12才の時、父親の仕事の都合で家族と共にニューヨークに移り住む。アメリカになじめず、改造社版「現代日本文学全集」を読んで少女時代を過ごす。

著者の略歴の欄にこういう記述がある。この本を書いた人がどういう人なのか知りたい時、キャリアや学歴と同等に、あるいはそれ以上に、この情報が欠かせないということではないかと思う。

つまり、著者の個人的な特殊な状況における経験を、半生をかけて煮詰めた「思い」がこめられた本であるということで、小説ではないとしても大きく言えば文学のカテゴリーに入る本だろう。

「日本語が亡びる」ことを感じている著者の痛み、絶望感といったものが主要なテーマであり、だから、「亡び」を描いた歴史小説SF小説のような読み方をすべき本だと私は思った。

歴史小説時代考証が甘かったり、SF小説に最新の科学理論と矛盾する記述があったとしても、それは大きな問題ではない。大事なことは、読者が、その「亡び」にどれだけのリアリティを感じるか、その「亡び」をいたむ著者のその心情にどこまで共感できるかどうかである。そういう観点からは、良い本だと思う。

フィクションだから世の中を動かす力が無いということではない。そこで感じた「痛み」を読者一人一人が自分の経験として受けとめることで、間接的に世の中に影響を与えることはできる。むしろフィクションの方が、深いレベルで人を動かすことができる。

小説家は、読者が動きはじめる時に力を与えることはできるけど、その方向を決めることはできない。私はそう思う。狂人に近いような怨念のような強い思いを込めつつ、ある部分から先をきっぱり断念する。その力技が小説家としての力量である。

ただ、著者の水村氏は、読者が自分の望む特定の方向に動くことを望んでいるようにも見える。それが中途半端な教育論となっていて、その部分は文学として見ても余分なものに思えるし、論考や政治的な主張と見てもいただけない。

そういう欠陥があるけど良い本だと思うのだが、梅田さんの「釣り」は、その欠陥の部分のみに注目を集めてしまう結果になったような気がする。

という感じで釈然としない思いを抱えていたのだが、それが、次のエントリを読んで、すっぱり晴れてしまった。

これは素晴しいエントリで、このエントリのきっかけを作ったのだから、「釣り」の成果は充分あったと言ってもいいと思った。

近代日本語の成り立ちにおける普遍語としての「英語」と、今が「英語の世紀」というときの普遍語としての「英語」はその意味合いがちがうと思う。

として、「帝国主義的普遍語としての英語」と「コモディティ化した普遍語としての英語」を分けて考えるべきという話だ。この二つの違いは、脚注にある次の指摘によって明確にわかる。

水村さんの議論には英語ネイティブに対する複雑な思いが込められているが、アメリカこそ自分の「国語」を奪われつつある人々なのである。その悲しみにも目を向けてあげてほしいと思う。

つまり、いい思いをしている「中の人」がいるけど、その分だけ交渉や妥協のしようもある「帝国」と、「中の人」も同じように悲惨な目にあっていて、交渉の相手がいない<帝国>の違いだ。

<帝国>という表記は、ネグリとハートの<帝国>という本に書かれた<帝国>を指すつもりで私は使っている。まさに「中の人などいない」これまでと違う種類の<帝国>について書いてある本だ(と私は理解している)。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

非常に難解なその本の中核にあるテーマを、id:tatemuraさんのこのエントリは、明確に指摘しているように感じた。

日本語は、古い「帝国」に対抗し、自分たちの文化を守る防波堤としては非常にうまく機能した。

たとえばプログラミングを習う時、「オブジェクト」とか「クラス」とか「メソッド」とか、どこか自分たちとは関係ない世界の出来事のような言葉を使って、我々はそれを習得する。でも、英語のネイティブスピーカーにとっては、それは日常会話の中で普通に出て来る言葉であって、同じようにそれらの概念を理解していても、脳の中に日本人とは全く違うシナプス結合を作っていると思う。

それによって、生活世界を守りながら、普遍語の世界にアクセスするという離れ技を日本語という「国語」は可能にした。

問題は、「帝国」に対して通用したその方法が<帝国>にも同じように通じるかどうかである。

それは、特定の覇権国家が押し付ける国語でもなければ、ラテン語のように少数のエリートのための権威的言語でもない。印刷技術、ウェブ技術を経て知がコモディティ化した上での普遍言語である英語は「コモディティ言語」である。「聖書はラテン語です」「論文誌は英語です」といったレベルではない。これに対抗するというのは、特定の支配者に対抗するというのではなく、世界中の誰でもないその他大勢に対抗するということである。それがどんなものであるかは、ウェブ時代を生きるものであれば肌で感じているのではないだろうか。

<帝国>とは「世界中の誰でもないその他大勢」である。

「誰でもない」という非人間性、暴力性のみに注目しても、「みんな」であるという民主的な性質のみに注目してもその正体は見えてこない。その両方が分かち難く結びついているのが<帝国>である。

「帝国」が<帝国>に変質したのに対応する変化を、日本語は通り抜ける必要がある。

それがどういうものになるかは想像もつかないが、直感的に言えば、日本語はもっともっと柔らかくなるべきであると私は思う。

「帝国」に対抗し「国語」になる為に、日本語は固くなる必要があった。<帝国>に対抗する新しい<国語>としての日本語は、ずっと柔らかく正体不明の言葉になるべきだろう。

そして、そのような変化は、もう既に起こっているのではないかと思う。

梅田さんでなくても「理解不明である」と嘆きたくなる思いは、多くの人が感じていると思うのだが、それは日本語という言語に特有の柔軟性も一因ではないかと思う。

つまり、日本語が柔軟である為に観測範囲が広がり「理解不明」なものが余計にたくさん見えてしまうのだ。

その象徴が2ちゃんねるなのではないだろうか。

つまり、あそこでは全く新しい日本語が産まれているのだ。そしてその言語で伝えられる情報量は英語より密だ。英語よりバイト数あたりで伝えられている情報の総量が大きいのだ。しかも、英語はスピードが高速に固定されているのに対し、「2ちゃんねる語」はスピードが可変だ。必要に応じて「日本語」のレベルまでスピードを落として、まったりすることもできる。論理だけを屹立させたシンプルな表現もできるし、微妙な情緒をこめた言い方もできるし、ひとつの文の中にそれを両立することさえ可能だ。コミュニケーションのためのツールとしては、英語より完成されているのかもしれない。

この機能性と曖昧さを保ったまま、この言葉を英語に訳すことはおそらく不可能だろう。「鬱氏」とか「串」「鯖」のたぐいや「漏れ」なども、同様に機能性と同時に微妙なニュアンスを保持している。サービス産業と2ちゃんねるで、何故そういう不思議な日本語が生まれるかと言うと、どちらも機能性と文化が衝突する場であるからだ。相反する要求に締めあげられて、日本語の潜在能力が発掘されているのだ。リミット技とかトランスとかスーパーサイヤ人とかと同様の現象が発生しているのである。

英語をしゃべる人には、ロックの中で英語という言語が果たした役割が理解できないだろう。同じように、日本語をしゃべる人には2ちゃんねるの中で日本語という言語が果たした役割を理解するのが難しい。日本の言語と文化が2ちゃんねるを生み出した必然を理解できない。それが輸出する側の強みであり弱みである。

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一日一チベットリンク中日新聞:ダライ・ラマ氏が善光寺に仏像:長野(CHUNICHI Web)