食わず嫌い王の野心

食わず嫌い王決定戦の学問版みたいなものがあれば、きっとケン・ウィルバーが優勝するだろう。

例えば、四象限のモデルからそれぞれ一品づつ持ってきて、順番に蘊蓄をたれながら、おいしそうに食べていく。ウィルバーのポーカーフェースから、どの象限が食わず嫌いなのか当てるのは、非常に困難だ。

統合心理学への道の道の11章には、次のような「意識についての学」のカタログがあって、13種類のアプローチを並べ、全てが同等に重要だと言う。

(以下のラベルは同書からの引用ですが、説明文は私の解釈をまじえています)

認知科学
AIによるシミュレーションによって意識(知能)の動きを解明
臨床精神医学
意識を薬で支配できるものと見る
神経心理学
神経系、神経伝達系(脳内ホルモン?)から脳の仕組みを探る
心身相関医学
バイオフィードバック的なもの
量子意識的アプローチ
量子力学の謎の中に意識の秘密がある
気の科学
気を解明されてない物理的な力と見る
進化心理学
意識と行動を生物的進化の結果と見る
個体心理学
フロイト等の精神分析、臨床心理学
内観的な心理学
哲学的な内省によって意識を探る
社会心理学
エコロジスト、マルクス主義構造主義
発達心理学
古典的な発達心理学とそれに瞑想や宗教をからめたものを含む
非日常意識の研究
幻覚性薬物、シャーマニズム至高体験等の体系的研究
ヨガ、瞑想
高次の意識の存在を前提とする、それに到達するための方法論

ウィルバーの特色は、こういうカタログをリストアップする時も、それぞれの個別分野について研究する時も、「食わず嫌い」がないことだ。いろいろな理論や研究がある中で、どれを取りあげどれを無視するかの選択を、自分の好き勝手で恣意的にすることはない。方法論を示し、なぜそれを取りあげるのかの根拠を明確に述べている。それは、正統的なアカデミックなアプローチと言ってもいいと思う。

つまり、どれが考慮すべき革新的な研究で、どれがトンデモかという区分けを、きちんとひとつの方法論に基いて行なうということである。広く受けいれられた理論についても、トンデモ的な極端な解釈というものがあるが、ウィルバーは慎重にそういうものを排除して、専門家が代表的な解釈とみなす解釈によって、それを自らの理論に組みこんでいく。

だから、上記のリストにどういう苦情を言っても、きっとウィルバーはきちんと説明して答えられると思う。つまり、「なんでこんなトンデモが入っているのだ」と言えば、「それについては、これとこれとこれという信頼できる研究結果がある」と言うだろうし、「なんで、こんな重要なものが抜けているのだ」と言えば、「それについては、これこれこういう理由で、信頼性に欠けるとみなして除外した」と言うだろう。

ウィルバーがソースとして取り扱うものの中には、宗教的な神秘体験の研究のように再現可能、検証可能でないものが含まれているが、ウィルバーの研究自体については、客観的、厳密な検証が可能であって、どのような基準から言っても「学問」として成り立っていると思う。

幅広い分野において、そういう厳格なサーベイを行なった上で、ウィルバーは、それら全てをひとつの体系としてまとめあげる。とりあえず、上の13のアプローチのどれに対しても矛盾しない「意識」の包括的なモデルを提示して、これをベースに、「万物の理論」として拡張していこうという考えのようだ。

おそらく、その中に包含される理論の大半は、ウィルバーの大好物なんだと思うが、本当は嫌いな品も一品、二品は含まれていると思う。だが、この人はてごわい人で、「再食指定」で何を指定しても、楽々もう一度食べて、さらに詳細なレベルで自分のモデルに組み込んでしまう。なかなか「参りました」と言って白状しないのである。

そのへんの本音が見えてこないので、もうひとつ好きになれないが、「学問」として、特にサーベイとして、非常に意味の深い研究であるのは間違いない。

例えば、オウムや麻原を本当の意味で斬れるのは、この人ではないかと思う。麻原を単なる口先だけの詐欺師と見たり、教団の吸引力を単にLSDによる幻覚体験による「シャブ漬け」と見たりするのは、なぜか。それは、麻原が何らかの「宗教的体験」をしていたとしたら、彼の知性やモラルが一般人より高いことになってしまうからだ。

ウィルバーは、知性(認知)、モラル(倫理)、スピリチャリティ等が、個別に発達していくモデルを提示している。だから、知性やモラルが低くても、高度の体験をすることがあり得ることを説明できる。だから、宗教的には一定のレベルまで達した人間がそういう組織的犯罪を引き起こすという状態が、何を意味しているのかについて、膨大なデータをもとに検証した上で、納得できる説明をすることができるのだ。

その説明は、例えば、薬物の禁断症状によって同じ事件を説明するモデルと比較可能である。モデルの優劣をつける前に、同じ土俵で両者が比較可能である点が重要だと思う。

普通、神秘体験について語る人は、「それは言葉によっては知り得ない体験だ」として、説明を拒む。ウィルバーも「説明不可能な地点」について言及するのであるが、何がいつどこでどのように説明不可能になるか、5W1Hを明確にした上で言及する。だから、「知り得ない体験」「語り得ない体験」の回りで起こるさまざまな事象については、より多くの説明をすることが可能になる。そして、そこから行動科学や物理学のような完全に客観的な理論までの連続性がある。

その連続性が「食わず嫌い」で埋まっていて、ウィルバーという人がなかなか見えてこないことに、私は不満があるが、それを補ってあまりある魅力を持っていることも否定はできない。


しかし今日、我々はそれ以下ではまったく満足できないほど多くのことを知っているのである(P452)

神と物質と人間と愛を含む彼の理論はもし完成したら、本当に「万物の理論」と呼べるだろうか。

私は、彼の理論には唯一ユーモアだけが欠けていると思うが、神と物質と人間と愛を含む世界そのものが最大のジョークであって、とても生真面目に見える彼の学問と人生も全体としてひとつのジョークを構成しているのかもしれない。