「立場」のBTO、あるいは1億2千万人の人間宣言

俺は自分の両親はあまり一般的な親ではなかったと思っているが、それでも友達の親はたくさん見てきたわけで、「一般的な親」のあり方みたいなイメージは持っている。「今の上司は昔の上司のようでない」みたいなことも言っているわけで、当然、「一般的な上司」のあり方みたいなイメージも濃厚にある。

しかし、どちらにも自分はなれてないと思うし、なれる見込みもあまりない。自分だけではなくて、同世代プラスマイナス5年くらいで回りを見ても、すんなりそれができている人は少なくなっているように思う。

これは昔の人が偉かったわけではなくて、そういう「立場」とか「役割」いうものは個人的な力ではないということだ。

背後になんらかのお御威光を背負って人間は「親」や「上司」や「先生」やその他いろいろなものになる。下から見て、御威光と本人の力を見分けることは難しい。なる方でもあまり意識してない。単に、立場に自分を合わせていると勝手にそういう御威光が備わってしまうので、立場の中にいる人も外にいる人もあまり考えずに、全てが本人に所属するように漠然と錯覚していたにすぎない。

共同主観や社会的合意が崩れはじめて、目に見える行動パターンや規範より先に、御威光の威力が弱まってきているから、あらゆる「立場」がゆらぎはじめているのだと思う。それで、今はどういう「立場」であれ、ほとんどの「立場」に立つ人が、前任者と比べて貫禄がないとか人間ができてないとか、ボロクソに言われるのだ。

「権威に対する反逆精神は昔からあった」と思う人がいるかもしれないが、「反逆」しようということは、その「権威」のパワーを認めているわけで、「反逆」はできても「無視」はできないオーラがそこにはあって、それは社会の成員の大半に共有されていたのである。

別に今の人間がダメなわけではなくて、「立場」の御威光をうまく利用できないだけのことだ。あんなに立派に見えた、昔の人たちだって、その御威光が消えされば同じことであったはずだ。だから、別に恥じる必要はない。

そして、一律に大量生産される「立場」というものは消滅しつつあるが、社会の中で多くの知らない人と知らない人とが遭遇する以上、「立場」「役割」というバッファーはどうしても必要だ。

ただし、その複雑さ順列組合せが幾何級数的に増大しているので、「立場」は多品種少量生産されなくてはならない。ひとつひとつの「立場」が独特で世界で唯一のものに成りつつある。ほとんどBTOの世界だ。標準的なパーツは潤沢に供給されるが、製品の見本はどこにもない。自分の「立場」は自分が独自に組みあげなくてはならない。

そこで突然「人間宣言」をしたあの人のことを考えてしまうのだが、あの家系に生きる人たちも、自分の「立場」にはモデルがない。完全にユニークな状況に置かれていて、自分の親や兄弟とも全く違う独自の「立場」に生きなくてはいけない。がんじがらめの慣習には全て前例や細かいしきたりがあるのだろうが、それをネットが普通に存在する現在にどう適用するかについては、前例がない。

あの人たちの人生は、全てがそういうパイオニアとしての人生だ。

そういう人生がどれだけ大変なことなのか、ようやく我々庶民も少しづつ気がつかざるを得ない状況になっているのだ。我々が持つ、あの人たちへの尊敬と関心の中には、パイオニアであり続ける宿命みたいなものへの敬意も少しは含まれているような気がする。

我々もあの人のように、自分の立場を解体して「人間宣言」をすべき時期に来ているのである。「人間宣言」をした上で、新しい状況の中で再び自分の「立場」を組み立てるのだ。

俺が、思想というパーツをアヤシゲなものも含めてむやみと買いあさるのは、そういうわけである。