日本教神学を言語化すれば、不可解暴発犯罪は無くなる

GPL著作権を否定しているわけではない。むしろ、著作権を利用して、「配布、改造の自由」という反逆思想を、強制しようという考え方だ。

欧米では、反逆や改革をする人は、常に体制と自分との相違点と共通点を明確にする。GPLは、著作人格権という考え方を体制と共有し、ルターは「イエスの教え」をカトリックと共有する。ニーチェが「神が死んだ」と言った時も、「神」という概念をその反逆の対象と共有している。

「言葉で反逆を表現する」ということが可能であるのは、その反逆の対象が言語になっているからだ。市場主義とか経済制度とか社会的な制度も、それをささえるキリスト教や近代の理念も言葉になっている。

欧米では、反逆や革命は常に雄弁だ。それは、反逆者の側が言葉を重視しているからではなくて、体制の方が、自分の神学を言葉にしているからだ。

言葉にするということは、危険なことであって、ある意味自分の弱点をさらけだすことだ。いいがかりや難癖の口実を与えることだ。しかし、反逆する側も、体制が言葉になっていることで、自分の思想を言葉にすることができる。暴力を伴わない革命はないが、言葉の無い革命もない。

ニートや引きこもりや不可解暴発型の少年犯罪は、反逆としてとらえるべきだろう。そして、そこに言葉が無いことが、反逆者側の事情でなく、体制側の事情であることを理解すべきだ。神学が言語化されてないから、言葉の無い葛藤が起きるのだ。「労働」や「学校」や「大人」や「家族」という言葉には神学的な意味が含まれているのに、それを誰も教えてくれないから、反逆の射程が決められないのである。

「宗教なんかなければ、人間と人間として誰とでも話し合いで揉め事を解決できる」なんていう日本人の平均的考えが、実は、世界の中では非常に珍しく、特殊な考えであることを山本七平氏の「日本教」という概念が明かにしている。

日本教」という特殊な宗教があって、それが山本氏以前には、十分言語化されていなかったのだ。その神学が無いことが、言葉の無い葛藤を生むのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

これを学校で教えれば、とりあえず、生徒は自分が爆弾を投げつけたい対象が何であるか、わかってくるのではないか。彼らと共有可能なものはあると思うが、それはまだ言語化されていない。

(参考)

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