腹芸というサイバーカスケード

「干からびたチーズ」という政治的言語に関して「腹芸ができない、わからない」という事を批判する、というのは公約恐怖症が残ればいいのだ!バンザーイ!で言っていることと矛盾しているのでは?というコメントをいただきました。

確かに、混乱しているというかわかりにくい面があると思います。そこで、サイバーカスケード/政治/言論という枠組みを使って、これを補足してみたいと思います。

まず、私が意外だったのは、森さんを評価する声が意外に多かったことです。今回の件に関しても、名脇役という評価を、私の記事よりずっと前に与えていた人がいました。ですから、こういうメッセージのやりとりについて抵抗がなく、普通にそれを受け取り解釈できる人は一定数いるわけです。

自民党のような日本的なコミュニティの中では、こういうコミュニケーションの様式が発展して、それを使用した高度なコミュニケーションが行なわれているのだと思います。私はそこに起こった行き違いについて、受信側が見落したことを批判しました。

しかし、これは特定の価値観、人間観に依存した話で、誰にでも容易に理解できるものではないし、そういうコミュニケーションを全員に強制するのは間違っています。造反議員はそのコミュニティの内部にいたのにもかかわらず、森さんの重要なメッセージを見落したので、そのことを私は批判しましたが、それは「誰でもこれを理解すべきだ」「これを理解しないものは政治に関わるべきではない」という意味ではありません。

一方で、逆に、私が森さんの談話をあのように解釈したことについて違和感を感じた、という反応もたくさんあったのですが、それはネットの中でのサイバーカスケードを外部から見る反応に似ているような気がします。濃密であるが内容が理解できないコミュニケーションを外部から見たら、滑稽に見えたり不気味に見えたりするものです。

サイバーカスケードとは、価値観を共有する閉じたコミュニティの中で、特有の様式で特有のメディアによって、濃密になされるコミュニケーションです。その長所として、そこでのやりとりが一定の深さを持つということが言えます。短所としては、コミュニケーションの特有の様式になじめない外部の人間を排除し、排除された側から内部を見ると不気味に見えることから、感情的な対立を激化させることです。

公約というコミュニケーションが、こういうスタイルで行なわれるのは問題です。公約は、私の枠組みでは、「政治」に属します。つまり、誰もが共有するリアルワールドに関する決定を行なうプロセスです。ですから、なるべく多くの人に理解可能なメッセージとなっている必要があります。

小泉さんは、政治を腹芸的サイバーカスケードの世界から、「公約」という共有可能な世界に引っぱりだそうとしています。そのことを私は評価しますが、政治が「政治」単独で行なわれて全てがうまく行くとは思いません。「政治」とは、強制を伴うもので、強制とは本質的には暴力だと思います。暴力ではあるけど、リアルワールドを共有する以上、避けられない暴力です。そして、弱者切り捨てを伴います。今までは腹芸的密室的コネ的コミュニケーションの弱者が55年体制の政治から排除されていましたが、これからは竹中的グローバリズムの世界における弱者が排除されていくでしょう。

ある価値観によって「政治」的決定がなされれば、必ず、その価値観における弱者が排除されます。そこで、特定の価値観が絶対正しいと主張することは可能ですが、全員を納得させることはできません。特に切り捨てられる弱者を納得することは困難です。そこには葛藤、闘争が避けられません。

そこで、それを補完するものとして「言論」が必要であると私は考えました。

私の「『干からびたチーズ』という政治的言語」は、腹芸的サイバーカスケードで行なわれたコミュニケーションを、それを理解しない人に伝えようとするものですから、(質は別として)自分の定義する「言論」の要件を満たしていると思います。

もし、これが腹芸的コミュニケーションを全員に強制する意図を持って書かれていたり、他の様式に対する優越性を主張するものであったら、「言論」でなく「政治」になります。「政治」であれば、どちらが採用されるか決定しなくてはなりません。

(こういう意味で「政治」と誤読された方もいたようですが、それは私の修行が足らんということです)

しかし、「言論」は「政治」の回りをグルグル回っていて、どこへもたどりつきません。時には喧嘩腰でディベート的なスタイルを取ることもありますが、本質的には「こっちにはこういうことがあるんだよ」「へー面白いねえ」という会話です。

サイバーカスケードの内部で閉じて行なわれるコミュニケーションには、特有の深さがありますから、それが外部に届く場合には、驚きと発見を伴います。それは、「政治」的決定を共有することに対して間接的に寄与する機能があると思います。

例えば、郵政民営化に関するマクロ経済的、財政的観点からの議論は、私の定義ではサイバーカスケードになります。そこで行なわれるコミュニケーションは、外部を排除した特有の様式で行なわれます。特有の様式であることから、一定の深さを持ったコミュニケーションになります。その議論の結果が、サイバーカスケードの外部に伝えられた時に、「政治」的プロセスを共有することが容易になります。

これが、「サイバーカスケード」の中で行なわれていれば害にはなりませんが、その正当性を絶対的に主張して、それを「政治」として強制すると、それは暴力になります。それは「特定の未来予測モデルを受け入れて、それによる現在の犠牲を甘受せよ」という命令になります。それは、特定の価値観で生きることを人に強制することです。

腹芸もネット右翼もマクロ経済も、どれも重要なコミュニケーションですが、サイバーカスケードという意味では、同等です。私はそれらが「政治」と直結しないことで「言論」としての価値を持つと考えます。また、重要ではあるけど、「政治」を一意に決定する原理としては使われるべきではないと思います。

「政治」にはいろいろなスタイルがありますが、私から見るとどれも最悪です。分割やフィルタリングの困難なリアルワールドは、バーチャルワールドよりはるかに使い勝手が悪いと思います。誰かの決定が全員に強制されるなんて最悪です。ただ、さまざまの「最悪」の中で、明示的な公約オリエンテッドな契約ベースの政治プロセスは、ベストに近い「最悪」だと思います。小泉さんは、ほぼその方向に向かっていて、森さんはそれをうまくサポートしていると私は思います。また最悪の「最悪」は「何もしないこと」で、そこから小泉さんが最も遠いことも私は評価します。