Spirit, Soul & Body: 科学と霊性の「確からしさ」


むしろ、私たちがあるものを「確かである」と考えるのはどのような根拠にもとづいているのか、それを明確にするだけで十分であろう。村上陽一郎はそういう形で信仰の立場を確保しようとしている。つまり、霊的次元について、「そういうリアリティがあるというなら、それを私にもわかるように『証明』してみろ」というような、こちら側に立証責任を負わせるような論理が間違っていることを示せればよいのだ。

そのような主張を受け入れるかどうかは別として、「確からしさ」と「立証責任」という観点は、上で述べた「立場の解体」の為の重要な工具になると思う。


ベートーヴェンの「第五」が名曲であるということは証明できない。ただ、「第五」の底知れぬ「リアリティ」に触れた人々が、その体験を語り合えるにすぎない。この場合は、「第五」を理解したことがない多くの人も「自分にはよく理解できないが名曲であるらしい」ということを受け入れているらしい。これは文化的権威というものだろう。

「自分にはよく理解できないが名曲であるらしい」ということは確かに受け入れやすい。それは「文化的権威」というものの力だろう。

しかし、スピリチャリティーという言葉で表現される「自分にはよく理解できないが別の生き方、別のリアリティもあるらしい」ということを受け入れることは困難だ。受け入れているように見えても、その「別の生き方」「別のリアリティ」を単に自分の生き方、自分のリアリティとしたに過ぎない場合も多いと思う。その場合は、逆にこちら側の普通の生き方、唯物論的リアリティが、その人から見た「別の生き方、別のリアリティ」になるわけで、その「別の生き方、別のリアリティ」を受け入れられない人も多いような気がする。

「自分にはよく理解できないが別の生き方、別のリアリティもあるらしい」ということを「文化的権威」抜きで受け入れられるかどうかが、現代人につきつけられた課題ではないかと思う。

そしてこれは、日常的な用語で表現するのは困難だが、実は日常的に遭遇する問題である。