オープンソースはわからないくていいから部下のことを理解しなさい

新人の時の席は大部屋のはじっこで、会議室のすぐ前だった。配属されてしばらくして、この会議室に一人の先輩社員と課長が入っていき、しばらくすると大声が響きわたってきた。「課長! そんな方向でうまく行くはずがないでしょう」なにやら難しい専門用語のやりとりの中にそういう声が聞こえてきたりして、すごい議論になっていた。ほとんど朝生状態である。

「いったい何が起こったんだろう」と新人同士で顔を見合せていたが、他の人は何もなかったように平然と仕事をしている。気が気でなかったが、来たばかりの新人としてはどうしていいかわからず、まるで自分が怒られているように、ただただ身をすくめていた。その大議論はえんえんと続き、二人は5時間くらい朝生をやっていた。

そしてあきれたことに、翌日も朝一番で会議室に入り、同じような怒鳴りあいを何時間もやっていた。さすがに、それでいったんは終結したようだが、一週間くらいたって、またその二人が同じ会議室で議論を始めたので、ようやく我々も、これが日常茶飯事であることを知り、その頃にはもう不感症となり聞き流せるようになっていた。

1年もすると、知らないうちに、自分が主任と議論をするようになっていて、さすがにその先輩のような大声は出さなかったが、システムの設計方針について何時間も議論をした。上司の言うことはいちいち的外れで、本当に不勉強でピントはずれのダメ上司だと俺は思っていた。

何年かして転職して、そういう会社から仕事を回していただく身分になって、先方のキーマンとされる人物にアプローチしていくと、そういうキーマンは、「怒れる若手」と「なだめる上司」の二人組になっていることが多かった。そして、「怒れる若手」にこちらの技術を認めさせれば、「なだめる上司」の信頼を得られて、それで長期的によい仕事をもらえる。そのパターンが多かった。

このパターンだと、上司の方が最新技術にうとくても油断できない。優秀な部下を使って、間接的に外注の技術力や仕事の丁寧さをチェックしているのだ。部下の様子を見ていろいろなことを理解してしまうのだ。

そういう部下は、本当に優秀で、いくつもの仕事を同時にこなして、目の回るような忙しさで、やはりいつも怒っていた。喧嘩を外部に見える所でするペアとそうでないペアがいたが、どちらの場合でも、ほとんどの場合、上司は部下を信頼してうまく使いこなしているように見えた。

そういう風景を見慣れていたから、池田敏雄さんの話は実感としてよく理解できる。プロジェクトXのヒット作にもなったが、無茶をする部下と、それをうまく泳がせる上司というパターンは、日本の大企業の組織の文化になっていたのではないか。

規律やシステムを緩めに作って、上司の裁量で部下を泳がせる。そもそも優秀な部下というものは、上司に見えないことが見えるのでたいてい怒っていて、時として上司に理解できないような無茶をする。そういう人が、羽目をはずせる余地があってこそ、日本的経営組織というものはうまく回っていたのだ。

自分が泳がされた経験をふりかえると、俺の上司は仕事の中身は見えてなかったが、俺のことは見ていた。仕事をすればそれをちゃんと見られているという実感があった。だから、安心して怒っていられたのかもしれない。きっと、喧嘩をしながらこちらの顔色を見て、問題のレベルや進捗をそれなりに把握していたのだろう。上司が自分のことをちゃんと見ているという実感が、組織に帰属している感覚を養うのだ。

そういう上司としてのふるまい方は、あちこちで見たから、ひとつの伝統的な芸として、日本のあちこちに定着していたのではないだろうか。おそらく、池田敏雄さんは始末書をたくさん書いただろうが、念書は書いてないと思う。俺が知っているよき伝統は消滅しつつあるようだ。

オープンソースがわからない上司がいたってしょうがないと思うが、部下のやってることが見えてない上司はどうしようもない。部下を怒らせることが問題なのではなくて、部下の目を自分の武器として使えないことが問題である。時代についていけないことが罪なのではなくて、自分たちが継承したものを残せないことが罪である。