日本の公共性はどこに?

民主制はギリシャ都市国家で始まった。ギリシャでは全ての市民が対等に議論して政治的な決定をした。そこには上下関係はなく、言葉で説得することで全体の方向が決まった。

しかし、ここで言う「市民」とは家長のことである。言論の場に出て論戦に参加することができたのは、一家のオヤジだけだ。外に出れば、オヤジは「市民」になって、「市民」であるうちは、「言論による説得」以外の方法では他人に何かを強制したりしない。しかし、家に帰ると、全く違うことをする。家の中では、家長は、絶対権力者として、有無も言わせず奴隷や女たちに一方的な指示をする人間になる。そこでは一切の議論が許されない。

この二面性をどうとらえるか。

ひとつには、これは技術的な限界である。生産性の限界である。家長は、生産活動をしないで一日中議論ばかりしている。家長の食いぶちは、奴隷や女たちの働きで生産される。一家あげて頑張ると、かろうじて、一人分の余剰生産が得られる。オヤジひとりなら外で遊ばせるだけの余裕がある。だが、当時の生産力ではこれがせいいっぱいだった。

だから、昔のギリシャに文句を言ってはいけない。全員が政治にかまけていたら、家が破綻してしまう。一家の代表を一人遊ばせるのだって、当時の技術水準を考えればよくやったと言うべきだ。

問題は、その代表者がどのような政治をしたかだ。家長は家を代表して「市民」として政治に参加し、「市民」の間では、今よりはるかに公平で自由な議論に基く政治があった。

それでは、もし当時の生産性が高かったらどうなっていたか。セブンイレブンや家電やネットショッピングがあって、ありとあらゆる家事が楽になっていたとしたら、ギリシャの民主政治はどうなっていたのか。みんな暇になるから、全ての人間が男女や階層の区別なく「市民」として政治に参加していたのか。それで万事OKなのか。

これがアーレントの問題提起の本質であり、アーレントはそれにNOと言うと思う。

アーレントはポリスの民主制を高く評価するが、そこに現れている「公的領域」「私的領域」の区別が本質的なものであると言う。家長が「市民」として自由な政治的論議を行なうのが「公的領域」であり、一家の独裁者として家人に一方的に指示するのが「私的領域」である。

この二つは、しっかり区別されるべきだ、とアーレントは言う。一人の人間が、二つの領域で全く態度を変えることを、むしろ良いことだと言う。

松岡正剛の千夜千冊『人間の条件』から引用


その社会生活は二つの別々の領域に分けられる。それがポリス(都市)とオイコス(家庭)である。このポリスからポリティクス(政治)が、オイコスからオイコノミー(エコノミー=経済)が派生した。

エコノミーはギリシャの家庭と同じく、必要性によって支配される領域だ。そこには一意の最適解があって、人間には選択の余地がない。

ポリティクスは、多様性が許容される領域だ。そこには、必然性がなくて(食う心配がないから)、あらゆる可能性が人間に開かれている。食う心配の無い気楽な身分になった人間が、一切の利害を離れて全体の利益の為にどうしたらいいか、いろんな方向から一生懸命考える。それが、パブリックでありポリティクスである。

エコノミーにおいて、利害の対立を解消し全体の最適解を導くのは、私的領域に属することで、それはポリティクスとは別のものだとアーレントは言う。それどころか、もし、エコノミーがポリティクスを汚染したら、「てめえら人間じゃねえ」とまで言い出す。「人間の条件」は、暇人が何の利害も無い所で、全体の為のことを議論することだと言う。

随分とおかしなことを言う人のような気がするが、実は、平安貴族も似たようなことを言っていた。歌やサロンや恋愛や加持祈祷が貴族の仕事と思っていて、エコノミーは「公的」な仕事でないと考えていた。

そこでエコノミーを引き受けたのが鎌倉幕府だ。武士というのは、もともと貴族の「家事」を担当する人で、現地の責任者をやっていた人だ。この人たちがトラブっても、それがどれだけ深刻な問題でも、平安貴族の目から見ると、それは「私的領域」なのである。だから、現場にまかせて何もしなかった。

幕府の仕事は、貴族には本質的に手の出せない、手を出してはいけない領域なのである。この、貴族と武士の領域分担は、アーレントの言う「公的領域」と「私的領域」と似ている。武士は「家」に所属し「家」に忠誠を誓う。全体のことを考えるのは貴族の仕事である。この感覚は、今でも残っていて、例えば大企業では、本社という「公的領域」と事業部という「私的領域」に分かれていて、本社は貴族のように君臨して実質的なことをしないし、事業部は泥臭く日銭を稼ぐが、妙にコンプレックスを持っている。たいていの社員は、会社より事業部に帰属していて、事業部の為に働く。そうした方が、何となくしっくり来るのだ。

唯一違うのは、「責任」がある人が、日本では武士であるのに対し、ヨーロッパでは貴族であることだ。ヨーロッパの貴族は「公的領域」を担う人で、少くとも建前としては私的な利害を離れて全体のことを考える人だ。それができなければ、「市民」ではなくてポリティクスに参加する権利がない。持株会社には、そういう貴族=エリートが集って、ちゃんと責任を持って全体を仕切る。日本の本社のエリートは口ばっかりで、現場の方に「プロジェクトX」的な責任感を持った「武士」がいる。

この感覚の為に、日本では匿名が責任の無いものとして扱われる。日本では責任を持つ者は、所属を明らかにして、所属する家の名誉を賭けてモノを言わなくてはいけない。そういう言説しか信頼されない。家に帰属しないコトバは、貴族のお気楽な妄言で、立派な大人の言葉ではないとされる。

だから、日本ではアーレントの言う意味で「公的なポリティクス」は存在しない。社会に信頼される言葉は、私的領域に属していて、家と家との利害調整なのだ。それが国会議員の仕事である。

皇室のような公的な立場の人間は、空虚な言葉を言わなくてはいけない。そこから一生逃げられないのは皇室だけだが、公的な立場につくと、一時的ではあるがその間だけは、皇室のように無意味なことを言わなくてはいけない。

もちろん、日本のことを高所から考えたい人間はいる。個人的にそういう希望を持つ人間はいる。しかし、そういう人も政治家になる為には、家としての政党や派閥に所属しなくてはならず、その所属した家に忠誠を誓わないと責任ある存在とは見なされない。私的な利害を離れて本当に全体の立場でモノを言えるのは「まつりあげ」られてからだ。「まつりあげ」られてはじめて、「まつりごと」担当になれる。

それで満足でない人が多いから、匿名掲示板が流行ったのではないだろうか。名無しさんの意見は、どこの家にも属してない。まさに「公的領域」だ。私的な利害を離れ、公共の為にモノを言おうとしたら、そこで発言するしかない。

2ちゃんねるでは、旗幟鮮明な意見は、妄想的に「工作員」呼ばわりされることが多い。「公的領域」としての2ちゃんねるが、私的な利害に基づく発言で汚染されることを恐れているのではないか。どうして、外の世界ではむしろ信頼される条件である、立場、所属の明確な意見が、「工作員」として嫌われるのか。そこから逆算すると、多くの人が、ここを「公的領域」として意識していることがわかる。

まとめると、次のようになる

  • アーレントの言う「公的領域」「私的領域」の区分は本質的で重要
  • 日本でも武士と貴族の区分が、ほぼこれに対応している
  • しかし、「責任ある存在」がどちらに所属するかが違う
  • アーレントが危惧する、現代社会における「公的領域」への「私的領域(特に経済)」の侵食は、日本において著しい
  • そのため、アーレントの言う公的な言論が日本から消滅し、その反動として2ちゃんねるが生まれた

2ちゃんねるは、輸入したものではなくて、日本で自発的に生まれた言論空間である。はるか遠いポリスから生まれた「公共性」(結局、西欧から輸入したものは根っこにそれがある(とアーレントは言っている))より、ここに茅生えている「公的な言論」こそを誇りに思い、大事に育てるべきではないだろうか。