天外伺朗「マネジメント革命」書評

マネジメント革命 「燃える集団」を実現する「長老型」のススメ
マネジメント革命 「燃える集団」を実現する「長老型」のススメ

団塊の世代の人が「上も下も悪くない、悪いのは自分たちの世代だ」と言うことはほとんど無いと思うけど、この本は、それに近いことを言っている稀有な例だ。著者は「井深大さんから受け継いだものを、私たちは次の世代にきちんと受け渡しているだろうか」という問題意識から、この本を書いたと言う。

著者の天外伺朗氏(本名土井忠利氏)は、ソニーでCDを開発し、ワークステーションNEWSとAIBOの開発責任者をつとめた技術系のフェローだ。1964年に中堅企業であったソニーに入社して、新入社員の時にトランジスタラジオの材料の開発の仕事に携わったが、社長であった井深氏が「とにきは毎日のように私の隣に座り、いろいろと議論をふっかけてきた」と言う。その後、いくつかの技術開発を経て、デジタル・オーディオの開発にとりかかり、最終的にCDを製品化することに成功するのだが、

いつもなら、新しい技術には目の色を変えてのめり込んで来る井深さんは、このときは反対派の総大将だった。デジタル技術が大嫌いだったのだ。その上、この直前に電卓ビジネス撤退の決断をしたばかりだった。
この後、何年にもわたって、私は大恩ある井深さんの猛反対の中で、デジタル・オーディオの開発チームのリーダを努めた。全然関係ない医療関係の話をしているときに、私は井深さんから「デジタル屋に、何がわかる!」と悪態をつかれたこともあった。

という大変な状況の中でのプロジェクトだったらしい。

しかしながら、いまから考えると私は、安心して井深さんに逆らっていたように思う。井深さんの言うことを無視しても、それによって個人的な信頼感が損なわれることはないし、報復されることもない、という不思議な安心感だ。ある意味では、幼児が親にいだく絶対的な安心感に似ている。

ここを読んで思い出したのが、自分の次の記事だ。

新人の時の席は大部屋のはじっこで、会議室のすぐ前だった。配属されてしばらくして、この会議室に一人の先輩社員と課長が入っていき、しばらくすると大声が響きわたってきた。「課長! そんな方向でうまく行くはずがないでしょう」なにやら難しい専門用語のやりとりの中にそういう声が聞こえてきたりして、すごい議論になっていた。ほとんど朝生状態である。 「いったい何が起こったんだろう」と新人同士で顔を見合せていたが、他の人は何もなかったように平然と仕事をしている。気が気でなかったが、来たばかりの新人としてはどうしていいかわからず、まるで自分が怒られているように、ただただ身をすくめていた。その大議論はえんえんと続き、二人は5時間くらい朝生をやっていた。

「朝生」というのは、お互いに相手の言葉が終わるのを待つことなく、相手の発言にかぶせるように自分の言いたいことを言うことを指している。

この「先輩社員」という人のチームは、今の言葉で言うとアジャイル開発の「プラクティス」やオブジェクト指向の「モジュール化」「カプセル化」に相当するような、小さな工夫をたくさん重ねていた。当時の技術の限界の先を見据えたような部分もあるが、理論的な先走りでなく非常に実用的なノウハウをたくさん持っていた人だ。私は、この人に具体的なノウハウだけでなく、「よいソフトウエア開発プロセスとはどういうものか」というような問題意識で教わることがたくさんあった。

彼は、定期的に「朝生」をやって、それでも足りずに飲みに行くと課長の悪口を言っていたが、そういう課長の元で非常にノビノビと仕事をしていたと思う。井深氏のものとで、井深氏に逆らいながらも余計なことを考えずにデジタル技術の開発に専念できた天外伺朗氏も似たような状態だったのではないかと思う。

そういう井深氏の経営のキモのようなものを、理論化、体系化しようと言うのが、この本の目的だそうだ。

そして、そのヒントとして、チセントミハイ教授の「フロー理論」なるものに着目し、アメリカまで教授の講演を聞きに行った時のエピソードも面白い。

なんと、講演のパワポの冒頭に、ソニー創業の時の設立趣意書の文面が映されたと言うのだ。

  • 真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想ノ工場ノ建設

井深氏が残した無形の財産は、ソニーでは、そして日本では完全に忘れさられ、アメリカにおいて新しい経営理論の源流のひとつとなりつつあるということだ。

教授は「自由豁達にして愉快なる」というところを強調した。「これがフローに入るコツなんです!」

そして、天外氏は、トランスパーソナル心理学の心の発達過程の理論の中に、経営というものを位置づけることで理論化しようとしている。

心理学という学問は百家争鳴状態であるので、簡単に要約することは難しいが、学問的に認められた主流の心理学では「自我の完成」ということを目標に置いているということには、一定のコンセンサスが得られるだろう。

つまり、「感情や思考を目的に添ってコントロールできること」を良しとする考え方である。

ケン・ウィルバーを始めとするトランスパーソナル心理学は、「自我の完成」を最終的な目標でなく中間的な目標とし、そこに宗教を接続しようとする。詩的な表現をすれば「自我が宇宙に溶けて宇宙と一体化」するというのが最終的な目標である。「自我の確立」の先に自然な成長のプロセスとして「自我が溶け出していく段階」「コントロールに執着しなくなる段階」があるということだ。

「自我の完成」は経営理論に重ねあわせれば、成果主義に代表される合理的な経営理論に対応する。その先に、意識的なコントロールを減らし物事が自動的に起こることに身をまかせるような違う種類のマネジメント(天外氏の言葉では「長老型マネジメント」)があり得るというのが、天外氏の主張である。井深氏を初めとする日本的経営は無意識的、属人的にそれ近いことを成し遂げていたが、本来は先進的であったそれらの経営手法は理論化されることはなく忘れさられ、日本の経営は成果主義に退化してしまったというわけだ。

その意図には非常に共感するが、率直に言って、この本の中で目標とする理論化、体系化が充分に成されたとは、私には思えない。

ウィルバーの理論を、このような一直線の発達過程として単純化することは、トラパ理解としてもウィルバー理解としても同意しかねるし、経営理論としては浅薄である。また、「合理的な管理におさまらない燃える集団」という、CDやAIBOの開発が成功した要因として位置づけている現象は、ネット系のベンチャーに数多く起こっていると思われるのだが、そういう事例に対する言及は一切ない。

また、「自我の完成」の先を射程に入れると、「目標」「努力」「段階的達成」「分割統治」といった、それまで有効であった手法が通用しなくなる。著者も言うようにそこを理論化するというのは、根本的な矛盾をかかえているのだが、矛盾が充分消化されているとも言えない。この本は、フロー理論やコーチングやワールドワーク、ユング心理学等いくつかの既存の理論を接続して、矛盾を突破しようとしているようだが、どれもつぎはぎであり統一感がない。

しかし、出発点としては重要な本であるとは思う。

特に、「(自我による)コントロールが行き渡ることが人間にとっても会社にとっても本当に良いことなのか」という著者自身の数多くの体験を元にした問題提起は重要だ。また、「会社の意識レベル」という発想もある意味実用的な指標である。

文化的重心の定義(ウィルバー)
その社会の平均的な期待可能な意識レベルであり、そのレベルより下の人を引き上げ、上にいる人を引きずりおろす作用が社会の中に存在する

天外氏は、これと似たような「企業の文化的重心」という概念を提唱している。社員がその下にあれば、企業の中で通常の業務をすることによって引き上げられ、その逆であれば、業務は苦痛となり意識レベルを下げることになると言う。

「企業の文化的重心」と社員のマッチングは重要である。つまり、その企業で仕事をすることが、社員の精神の成長、魂の成長にとって肯定的に作用するか否定的に作用するか中立的であるか、それを意識することは、企業にとっても社員にとっても重要だ。「自我の完成」の前の段階にあってそれを目指している企業と、試行錯誤の中であれその先を指向している企業はある。働く人が、どちらの環境が自分の希望に添っているかを意識し、それを一つの企業選択の基準とすることで、余分な葛藤を経験しないですむかもしれない。その社会的な意義の為には、乱暴な近似値である一直線の魂の進化という概念にも一定の有用性を認めるべきだろう。

「社会の文化的重心」「企業の文化的重心」があるとしたら、「世代の文化的重心」もあるだろう。「団塊の世代の文化的重心」は、その前後と比べて非常に低い。私にとっては「あの天外伺朗ともあろう人がこんな本しか書けないのか!」という感じで期待はずれであったのだが、ご自身のレベルよりはるかに低い世代のカルマを背負いつつ発言するという課題に真正面から取り組んだ結果なのかもしれない。

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(11/26 追記)

fakufakuさんのご指摘により、誤字を修正しました。fakufakuさん、ありがとうございました。