10000人対1人のウォーリーを探せ

「小学4年生」でないことを証明していくツイッターの集合知が凄い - さまざまなめりっと という記事を読んでいて、自分が昔書いた記事を思い出した。

ネットの中で何かをするということは,ある意味で負けることが決まっている勝負に挑むようなものです。(中略) それは,1万人対1人で「ウォーリーを探せ」をやるようなものです。 ある主張の中の論理の穴や,あるメッセージの中に含まれた誤解の可能性がウォーリーだとしましょう。書く側,発信する側は一人きりでその穴を探して埋めていくわけですが,読む側,受け取る側は何千人,何万人といて,そのうち誰かは先にウォーリーを見つけてしまうわけです。

ネットが万能だとは思わないが、問題の形によっては、すごい力を発揮する。上の記事に引用されたツィートを見ていると、フォントとか妖怪ウォッチとか、世の中には自分には思いもよらないことに着目する人がいるものだと感心してしまう。

指摘している人にとっては、日常的、常識的な疑問だと思うが、そのジャンルになじみがない人にとっては、「えっ、そんなことを気にするの?」とびっくりしてしまうことだ。

そのサイトそのものは見てないが、おそらく誰が見ても「これが小4?」と思うようなものだったのだろう。だから、このサイトに投げかけられた疑問は引用されたもの以外にもたくさんあって、そのうちのわずかなものがたまたま正解にたどりついたということだろう。

10000人と「ウォーリーを探せ」で対決したら、10000人のうち9990人はウォーリーがいない所を探してしまうのかもしれないが、10人くらいはすぐにウォーリーを見つけてしまう。

ここから得るべき教訓は「偽装サイトを立ちあげる時は使うレンタルサーバもちろんフォントにも注意しましょう」ではなくて、ネットで注目を集める時には、こういう構造が必然的に生まれることを意識すべきだ、ということだ。

それと、もうひとつ印象に残ったことは、このサイトを立ちあげた彼は、炎上や偽装ということを軽く見ているということだ。

私にとっては、こういう形で身分を騙って政治的主張をするのはとても悪いことで、それがバレて非難されるというのは、とんでもなくマズいことだと思うが、謝罪文を読んでいると、彼は、どちらもたいしたことないと思っているような気がする

たぶん、これについては彼が正しいのだと思う。これは非常に注目を集めた話題だったが、たぶん、一週間もすれば何か話題を集めるようなニュースが起きて忘れさられてしまう。「炎上が一大事だ」という私の感覚は、コンテンツの消費がもっと遅かった昔に形成されたもので、今の状況とはミスマッチだ。

一方で、子供をダシに使うというセンスは非常に古くさいもののように感じるが、そういう古い感覚と新しい感覚が入り交じっているのが彼の才能なのだと思う。そういう才能を持つ人が政治を志すということは良いことだと思う。「良い」というのは、もちろん単純な意味ではないが、皮肉だけでもない。彼が今後も政治的活動をしていけば、おそらく2chまとめサイト向きの強烈なネタを継続的に提供できると思うからだ。

経済においてバブルを完全に無くそうとすると不況になってしまうように、軽い言説がクルクル回っていることを否定しては、政治そのものが停滞してしまうのではないだろうか。

一億人から「何でやねん!」と総ツッコミ受けるような役割を担う人、どうしても担ってしまうような人が必要で、彼のようなちょっと理解しがたい感性の人が1000人くらいいたら、そういう新しいリーダーシップの形が見えてくるような気がする

あと関係ないけど、これも自分で読みかえしてみて面白かった→「インテグラル・スピリチャリティ」書評 - アンカテ

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