自分に都合が悪いものを見るための枠が言説の信頼感につながる

ちょっと前のエントリだけど

いま僕は毎朝数時間を費やして、SNSの中も含めて、ネット上に書かれた「ウェブ進化論」への感想や書評をできるかぎり読み、気になった内容は記録しながら考えるという作業を続けている。発売から二ヶ月以上たった今でも、捕捉できる限りで一日に最低100個くらいは新しい感想・書評がアップされているから、月に数千、これまでに累計で5,000以上の感想や書評を読んだ勘定になる。

このエントリの主張は、5000以上の他者の言説を背景にしているそうだ。そして、この5000以上の言説は、基本的には各種サイトの検索で機械的に選び出されたものだと思う。

機械的に」ということは、恣意的に自分の見たくないものを落とすことを自分に許さないということだ。

村上春樹氏も、膨大な読者の手紙やメールを集めた本を時々出す。「恣意的に自分の見たくないものを落とすことを自分に許さない」という点では、梅田氏と共通しているのではないだろうか。全件に当たることで自分が知らないうちに持っている恣意性を排除するということを、機械に頼らずにできるのは、村上氏の才能または良心または体力だろう。梅田氏は、機械をうまく使って同じことをしている。

「実証的」というのは、自分が事前に持っている理論や色眼鏡でデータを落とすことをしないということだろう。個別性の集積全体に丸ごと体当たりする覚悟があれば、統計的な分析はなくても「実証的」と呼んでいいのではないだろうか。

「誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がる」という二人が共通に感じていることは、そういう意味で「実証的」な主張ではないかと思う。

これに反論するためには、同じレベルで「実証的」な言説でないと本当は釣り合わない。もちろん、それは数の問題ではなくて、自分が見たくないものをきちんと見るための方法論を持って、現実に当たっているかどうかである。方法論は無数にあり、もっと違う枠で自分を縛れば、もっと違うものが見えてきて、別の結論に至ることもあるだろう。しかし、その枠の中に自説にとって都合の悪いデータが出てきた時に、そのデータときちんと向かい合うことが必須だ。そういう「実証性」があってはじめて、その反論は、梅田氏や村上氏の主張と釣り合う。

そういうレベルの反論があってはじめて、どちらが正しいか検討することができる。そういう段階には至ってないと私は思う。

たとえばこれなんか、典型的に脳内で作った記事のように思える。

科学的言説が信頼されるのは、自分に都合が悪い実験や観測にも向きおうという意思があるからだろう。そして、科学的言説が批判されるのは、そのような言説が取り扱うデータの枠について無自覚である時だ。

梅田氏や村上氏は、ネットの中の現実を全て見ているわけではない。そんなことは人間には不可能だ。だから、彼らが何かを切り落としていることを指摘し、それを批判することは可能である。しかし、そのような批判は、彼らが自分に課した枠組みを理解し評価してはじめて成り立つ。それは、科学的言説に対する正しい批判と同じだ。

平野啓一郎氏と梅田氏の対談、およびそれを受けての江島健太郎・平野啓一郎バトルは、そういう意味で、やっと出てきた初めての噛み合った議論なのかもしれない。