「あちら側」にハミ出すアイデンティティ

ウェブ人間論 (新潮新書)
ウェブ人間論 (新潮新書)

このマラソン対談の中で、二人の問題意識は時に重なり時にズレているが、問題意識が重なっている所は、「ウェブ進化論」の続編あるいは解説編として普通に読めた。

しかし、私にとって面白かったのは、むしろ問題意識のズレが露になっている部分で、自分自身にとって実に意外なことに、そういう場面において私は平野さんの方に共感しつつ、それが梅田さんに伝わっていないもどかしさを感じながら読んだ。

梅田さんは、「ネットに住む」という表現で、自分の日常生活を紹介している。また、ブログをネット上に放った「分身」と表現して、多忙でオフラインの状態が続くと、「分身」に何が起こっているか気になると言っている。

私が「ズレ」を感じたのは、その「分身」のリアリティ、あるいは、そこに投影したアイデンティティのようなものが、一つの実体を持つという可能性についてだ。

梅田さんにとって「分身」はあくまで「分身」で、梅田さんの「自己」あるいは「本体」はネットの「こちら側」、リアルの世界にある。

たとえば、ブログで書いたことを批判された時に「痛いと感じる」と言ったとしても、それはあくまで比喩である。生身の身体で感じる痛みはリアルなもので、「分身」がネットの中で感じる痛みはバーチャルなものであって、言うまでもなく本体は「こちら側」にある。梅田さんにとって、その本体と分身の役割分担は、変わるはずがない当然のことである。

平野さんは、「分身」の方に置いたアイデンティティが増殖し、「こちら側」の本体と入れかわることはないまでも、それが一定のリアリティを持ち自律的に活動するような可能性を考えて、それを「ネットによる人間の変容」と表現しているのではないかと思う。そのように私は感じた。

これは一見、SF的な突飛な発想に思われてしまうが、「こちら側」の身体性を伴うリアリティは、実は、我々が思うほど確実なものではない。

たとえば、バックトゥーザフューチャーで、主人公のマーティが「チキン」と言われると、我を忘れて逆上してしまうという場面が、一種のギャグとして繰り返し出てくる。「チキン」という言葉は、鶏ではなくて臆病者を意味しており、臆病者という罵倒は、アメリカでは「馬鹿」とか「チビ」等の他の罵倒語より痛烈であることがわかってないと、なぜマーティがあそこで理性を失ってしまうかがわからない。

注目すべきことは、ここで、マーティは物理的な身体には一切攻撃を受けていないことだ。

マーティは、そして大半のアメリカ人は、ひとつの言語的な身体を持っていて、「チキン」という言葉は、その言語的身体に対する「リアル」な攻撃となっている。

実際、ここで逆上したことによって、マーティは自分の物理的身体を危機に晒すことになる。あの瞬間、マーティにとって、言語的身体を守ることは物理的身体の安全より優先度が高いのだ。

セクシュアリティ(性的嗜好)というのは、その人に固有のものではなくて、権力関係の足場として、言葉によって外からの力で捏造されたものだというのは、『知への意思』という本の中でフーコーというフランスの哲学者がしつこいくらいに強調していたことですが、これが機能するのは、結局、捏造されたセクシュアリティに、ただちに顔の同一性に基づく個人の署名がされてしまうからだと思うんです。自分を取り囲んでいる情報に影響されて抱くようになってしまった欲望でも、それを満たそうとするときには、自分が主体にならないといけない。ところが、ネットでその欲望が追及される場合には、そうした署名の必要がない、あるいは偽の署名でいいわけです。これは大きな違いじゃないかと思うんです。(「ウェブ人間論」P88 平野氏発言)

「チキン」に自動的に反応する身体は物理的身体ではない。この「チキン」という罵倒の意味を理解していなければ、マーティのような反応はできない。「チキン」に反応する言語的身体は捏造されたものである。

セクシュアリティのような、物理的身体の欲求と思われていることも、実は言語的に操作されている(というか言語だけでできている)わけで、こういうことにを意識してそれについていろいろ考えている人間にとっては、「ネットの分身はバーチャルだから、どんなに『こちら側』に影響を与えることがあっても、それはあくまで副次的、便宜的な分身だ」ということを自明とみなすわけにはいかない。

逆に、「ネットの分身が実体として『痛み』や『欲望』(のようなもの)を持つとしても、それは、これまで構築されてきた言語的身体の別バージョンであり、根本的に新しい現象とは言えない」と従来の哲学的枠組みの中で処理してしまうことも間違いだ。

僕が匿名問題に拘るのは、匿「顔」性というか、ネットの無身体性から、色々なことが考えられる気がするからなんですね(P93)

これまで存在した言語的身体は、「顔」とリンクしている言語的身体であって、それによって一定の制約の中にある。ネットの中の分身は、「顔」を持たない別の形のリアリティであって、そういう制限に縛られていない。

これは主体のあり方にとって、良くも悪くも非常に新しいことなんじゃないかというのが僕の考えなんです。(P89)

そこに善悪両面の新しい可能性を見るべきだと言うのが、平野さんの言いたいことなのではないかと私は思う。

経済やビジネスの世界で「リアル」という言葉は、物理的身体より言語的身体を指している。悪徳金融業者の脅迫的な取り立てに耐えきれずに自殺する人は、言語的身体を傷つけられていて、その「痛み」は物理的身体の痛みよりリアルだから自殺するのだと思う。

そういう意味では、「こちら側」に構築された経済というリアルな世界は、生身の身体ではなく言語的身体の世界だ。シンボルの世界だ。それが、「あちら側」に展開したとして、根本的な変化は起こらない、シンボルの操作方法やスピードが変わるだけで、結局は今の延長線上にある、という見方も成り立つ。梅田さんはそういう見方のようだ。

平野さんがしつこく食い下がっているのは、「あちら側」の言語的身体が「顔」から切り離されていることを軽視できないということではないだろうか。

この対立について、私は自分の経験から平野さんの方に共感する。自分のブログのアクセス数が伸びはじめた時、「あちら側」の言語的身体が目覚めるのをはっきり感じたからだ。

「分身」としてのブログが経験していることの中には、「こちら側」の自分と接続されている部分もある。つまり、自分の書いた記事の内容に対しての共感や批判によって起こる感情は、誰かと対面して話している時に経験することと本質的には同じだ。語るべき相手が時空をすっとばして自分の所に来てくれたこと、それはネットの存在無しにはあり得ない経験だが、双方が言葉の中身を意識して接触している限り、経路はバーチャルでも両端はリアルだ。

私はかなり傲慢な人間だと思うが、両端がリアルである限り、その傲慢さには限りがあるし、社会によって制御され得る傲慢さだと思う。

しかし、それとは別のレベルで、手のつけられない傲慢さがアクセス数に比例して実体化していくのを感じて、それを私は、私のなかのムスカ大佐と呼んだ。

ムスカが気にしているというか、よりどころとしているのはアクセス数です。ひたすらアクセス数です。ムスカはとにかくアクセスが多くなれば自分がその分だけ偉くなったと思うのです。

どうしてそういう馬鹿な勘違いをするのかと言うと、それは、ムスカはデジタルデータに自分を同一化しているからです。そうすると、アクセスされる、つまり自分が配信されるたびに、自分が拡大して世界のあちこちに遍在しているような錯覚を持つんです。

それで、私はワームを作る人の真の動機を理解しました。ワームを書く人の中にもムスカがいて、彼はワームに同一化している。そして、ワームが世界中に飛びたつことで、自分の大きさがネット全体の大きさになったような快感を得るわけです。そうなんです。デジタルデータに同一化することは快感です。

デジタルデータは不変であり、いくらでもコピーできます。永遠の命を持つ存在であって、宇宙にあまねく遍在しているもののようです。それが自分であるかのように想像することは、限りある命を持つ非力な自分であることを忘れさせてくれるんです。ブログを書いてアクセスが増えるのを見ていると、自分がそういう快感を感じていることは否定できません。

つまり、デジタル(=不変で遍在可能)という、ブログというメディアが持つ性質に同化して、それに取りこまれてしまっているわけだ。

僕は職業柄、よく考えるんですが、自分を語ることは、自分を知ることではあるんですが、同時に自分を誤解することでもあると思うんです。僕はこんな人間だと、と語ってしまった瞬間から、そう信じてしまうわけですけど、結局は言葉ですから、本当はちょっとズレてしまっているわけで、それで逆に自己規定しまってもいるんでしょう。(「ウェブ人間論」P81 平野氏発言)

平野さんは、言葉のレベルで語っているが、書かれたモノが書いた人に対して影響力を持つという点では、私の「ムスカ」体験と通じる所があると思う。

また、ブログに同化している自分の分身に何か危機が起こったら、それが「こちら側」の自分に対して致命的な結果をもたらすかもしれないという漠然とした恐怖が私にはある。それをこう表現したこともある。

俺だって、こんなに毎日好きなことを書いていたら、いつか誰かのツッコミで悶死してしまうかもしれない。それくらいの覚悟はあるさ。

ただ、どんな危機がそういう危機なのかがわからない。アクセスが減ってもデータが消えてもどこかに晒されても誰にどのような批判を受けても、具体的に想定できることでは、最悪一週間程度落ちこめばそれで終わりだと思う。しかし、何だかわからないけどそれではすまないようなことが起こり得るという可能性だけは、ブログを書き始めてから常に感じている。

つまり、私のアイデンティティは、いくらか「あちら側」にハミ出しかけているが、その移行は過渡的なもので、まだきちんと形にはなってない。平野さんは、これと似たことが、多くの人に起こりつつあるのではないかと言っているのだと思う。

これは、非常に奇妙な人間のあり方に思われるかもしれないが、物理的身体だけで生きていられた昔の人にとって、ローンの取り立てや失業に対する現代人の恐怖は、もっと奇妙で理解不能なものに見えるだろう。社会がお金というシンボルを実体として受け止めるあり方を強制して人間がそれに適応できるなら、ネットの中でデジタルデータの速度と同じアジリティを求める社会にだって、人間は適応しアイデンティティのあり方を変えるかもしれない。

私は、自分の中でも他の人の中でも、こういう過程が今現在実際に起こりつつあるという気がしている。そういう意味で、全体を通して平野さんに共感することが多かった。

ただ一つだけ違うと思ったのはココ。

リアル社会で自己実現できていないとか、自分の言いたいことを自由に言えないとか、そういう不満の結果として、匿名で、ネットの中に思いを吐き出している人たちもいる。彼らには、リアル社会ととネット社会という二分法があって、その境界線が主体の内側に内在化されていて、前方に一つのリアルな世界が開かれ、後ろ側にもう一つ別の世界が開けている。その結節点に、主体が形成されているんじゃないかという印象なんです。(「ウェブ人間論」P82 平野氏発言)

これは重要な指摘なのだけど、「二分法」は「不満の結果」生じるのではない。そうではなくて、もともとあった分裂が抑圧されることなくそのまんま「結節点」として存続できるような、アイデンティティの形態をネットは用意してしまっているということではないだろうか。