クリコモのような「着地点」として機能する学問の場を応援しよう!

これ自体も大きなニュースかもしれないが、ここで「この新聞社の方針転換が1行で表現できることの意味」を考えてみたい。

つまり、「記事にクリコモ非商用採用」とわずか12文字で、この新聞社が何を考え何をしようとしているか、明確にわかってしまうということ。

もし、「クリエイティブ・コモンズ」という長年にわたる地道な活動がなかったら、この新聞社が同じことを決断してそれを表明しようとした時に、新聞社とそれを解釈、論評する側にかかるコストは、はるかに膨大なものになっただろう。単に「商用でなければ転載してもいいよ」と言われても、「これは何かのワナで、ブログにコピペしたら思わぬ高額訴訟をふっかけられるのではないか」みたいな疑心暗鬼に取りつかれてしまう人もいるかもしれない。

実際、「商用」とは何か「転載」とは何か、改変は禁止されているとして「改変」とは何か。そういうことを全部疑惑の目で見たら、簡単には信じられない。ゼロから新聞社とブロガーの信頼関係を構築するとしたら、果てしない質疑応答を繰り返したり、実際に転載をしたブログに対するこの新聞社の対応を虎視眈々と見張ったりする必要がある。場合によっては、行き違いやトラブルがあって、それをどう収拾するのかまで見極め「雨降って地固まる」的なプロセスを経て、ようやっと「あそこの言うことは信じてもいいかも」というコンセンサスが得られることになる。新聞社もブロガーもそこまで来ることだけでヘトヘトでその先を考える余裕もなくなる。

「記事にクリコモ非商用採用」というわずか12文字で、ひょっとしたら何年もかかったかもしれない、こういうプロセスをすっとばせるわけだ。いきなり「さてそれで何が起こる」「何ができる」「何が変わる」かを考えることができる。そういう着地点が予め用意されていたということの社会的な意味は大きい。

実は私も「クリエイティブ・コモンズ」については、正直言って中身をよく知らない(知らないままクリコモでブログのアーカイブや文章を公開したことはあるけど)。日の当たる華やかな存在ではなかったと思う。

でも、これは新聞社がクリコモ的発想に追いついた時に始めたのでは手遅れなのだ。「そんなライセンスで誰が自分の著作物を公開するの?素人の自作ぽえむ用のライセンスでつか?」くらいにしか、普通の人には思えない頃から、たくさんの実践と議論を重ねてきたから、この結果があるのだと思う。

東浩紀さんのisedの今後についてを見ても大変そうだし、前にロージナ茶会で白田先生の愚痴を聞いた時もそう思ったけど、こういう分野で学問の場を実践されている人たちは、いろいろ大変だと思う。私もこういう人たちのお話は難しくて、なかなかついていけないと感じることも多い。

しかし、これからたくさんの企業や組織が方向転換する時に、そこに今回のクリコモのような着地点があるのと無いのでは、発生する摩擦の量はとんでもなく違うだろう。

「着地点」は、ライセンスのような文書だけでなく、組織や議論の場かもしれないし、概念かもしれないし、データベースかもしれない。そういうもの全部引っくるめたものかもしれない。もっとよくわかんない何かなのかもしれない。

学問が、我々によくわかることばかりやっていたら無意味なのだ。少なくとも、ここで言っている「着地点」にはなれない。「いったいあの先生は何がご専門なんでしょうか」的な先生方を、よくわからないまま応援する気分がもっとあってもいいと思った。