「ブラックスワン」書評

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質

簡単に言えば、ビル・ゲイツ小錦の違いについての本である。

ほとんどの人は、ビル・ゲイツのような金持ちも小錦のように太っている人も知りあいの中にはいないだろう。

世界の大富豪長者番付というページによると、ゲイツの総資産は5兆1260億円で、これを年利1%で運用したとしても、それだけで年収500億である。

小錦の方は、KONISHIKI - Wikipediaによれば、「2008年2月、ついに体重が300kgを超え」てしまったそうだ(その後、減量に挑戦して、160kgまで落とすことに成功したとのことだが)。

一生の中で、年収500億や体重300kgの人と直接知り合いになる人はめったにいない。だから、小錦ビル・ゲイツは同じようなものだ(同じくらい自分と隔ったものだ)と、多くの人は考える。しかし、実は両者には大きな違いがあるのだ。

知り合いの中から特に太めの人を数人選抜して、体重を足せば小錦より重くなる。「小錦は○○さん○人分だ」という言い方で、けっこう正確に小錦という物体がどんなものかを想像することができる。

ビル・ゲイツはそうではない。知り合いの中で羽振りの良い人を全部集めて年収を全部足しても、500億には遠く及ばないだろう。というより、所得では、知り合いを全員集めてもビル・ゲイツ一人には及ばない。ビル・ゲイツと言わなくても、知りあいを束にしてもかなわないほど稼ぐ人はたくさんいる。

これを数学的に言うと、「体重の分布はガウス分布だが、所得の分布はそうではない」となる。

ガウス分布あるいはベルカーブは、統計の重要な概念だ。そして、大抵の科学はデータを統計的に処理するので、科学的なモデルを実地に使う時にも、ベルカーブという概念が重要になる。ある意味、ベルカーブが科学全体の基礎でもある。

知り合いの(あるいはランダムに選んだ100人の)体重を計ると、それだけで、小錦も含めた全人類の体重の散らばり具合が、いい感じで推測できる。体重の分布はベルカーブに添っているからだ。

統計を勉強してれば、平均と分散を計算することで、減量前の小錦の体重の人がどれくらいいるか、減量後の小錦の体重の人がどれくらいいるかおおよそ計算できる。たぶん、人間は頭の中で無意識に似たようなことをやっていて、小錦を直接知らなくても、知り合いの体重分布を延長して小錦を想像することができる。

しかし、同じやり方ではビル・ゲイツを想像することはできない。

所得の分布はベルカーブではないので、少数の標本を選んで、全体の分布を推測する計算がはるかに難しくなる。所得の分布を表すモデルも無いことは無いが、それは「キャリブレーションが難しい」そうだ。

金融危機とは、小錦に備えていた所にビル・ゲイツが来てしまったという失敗だ。その小錦の代わりにやってくるビル・ゲイツのことを著者のタレブは、「ブラックスワン」と呼ぶ。

ブラックスワンとは、「過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること」であり「とても大きな衝撃があること」のことだ。

金融工学で言う「リスク」とは小錦クラスのリスクで、それは通常の値動きをベルカーブで延長して最大の危機を想定したものだ。小錦を知らなくても理論的に小錦を想像し、それに備えることはできる。しかし、過去の経験をモデル化してその延長線上に未来があると思いこんでしまうと、それ以上の未来、ビル・ゲイツがやってきた時に破綻する。それがブラックスワンだ。

何故それを「黒い白鳥」と言うのかと言えば、「白鳥は皆白い」ということを誰もがみんな信じていたからだ。それは、単に自分の回りだけを見た思いこみではなくて、何千年にもわたって何百万羽の白鳥を観察した結果である。でも結果的には黒い白鳥は存在した。オーストラリアにいた。オーストラリアで黒い白鳥が発見されて、「白鳥は皆白い」は間違いだとわかったのだ。

事実と観察を積みあげて作った法則や予測が必ずしも正しいとは言えない、ということの象徴として「ブラックスワン」という言葉を使っている。

そして、著者のタレブがこだわるのはどちらかと言うと、そのブラックスワンそのものの性質ではなくて、人間とブラックスワンとの関わり方だ。上記のブラックスワンの定義には、「予測の不可能性」と「影響の大きさ」に続く三つ目の条件として、以下の項目が続いている。

「異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりする」

別の言い方をすれば、「人間はブラックスワンから学ぶことができない」ということだ。

10章では、大きな政治的イベントや経済的な指標に関する専門家の予測を集め、何年もかけて、その当たり具合、ハズレ具合を分析した実証的な研究を取りあげている。その中に「専門家は、間違える時に同じように間違えるので、その間違えた数字は互いに近くなる」という話と「評判の良い専門家ほどより予測の成績が悪い」という話がある。これが数字としてハッキリ出ているということだ。

つまり、「専門家」という商売は、説明という物語を構築し互いにそれを支えあう、非常に社会的な仕事なのである。本当に当たる予測より、「安心できる予測」「納得できる予測」の方が求められているのだ。これは私の解釈だが、ブラックスワンを排除してほしいという社会的なニーズがあるということだと思う。だから、多少なりともブラックスワンを意識した、よりましな予測は、どうしても評判が悪くなってしまうのだ。

ネットやコンピュータに関する専門家の需要を見ていると、確かにそんな気がする。ネットに関する予測は、どこかに受け入れ難い所を持ってないとまず当たらないと思う。2chYouTubeもブログもtwitterも、10年以上前にそれを予測した人がいたら、「この人は何ておかしなことを言っているのだろう」としか思えないだろう。だから、今後10年のネットを正確に予測する人がいたとしたら、その人の言うことは理解できないし、理解できたら読んで居心地が悪くなるような話で、あまり楽しくないと思う。

雑誌とかの「今年のネットはこうなる」系の話は、当たることを目指しているのではなく、何かもっと別のニーズに基いて構成されているような気がする。

タレブは、自分の立場のことを「懐疑的実証主義者」と呼ぶ。単なる実証主義は、リアルを見ようとはするが、そのリアルを見る時に無意識に使っている概念を疑うことなく、気軽に自分が見たものを「リアル」と呼ぶ。頭に「懐疑的」がつくのは、概念を疑い概念の有効性を検証しながらリアルを見ようとするからで、何がリアルであるか安易に断言しないからだ。

その「疑う」という部分を持っているかどうかが、普通の「専門家」とタレブの違いだ。

これは、「私の疑いは十分な疑いだろうか」と自分の疑いを疑う所に行き着き、無限に後退をするしかなくなっていく。着地点はなくて居心地はよくないのだが、この頭の使い方は非常に参考になると思う。



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