パッチを売る商人たち -- 緑の資本論 読書メモ2

「今年の流行色は○○です」って言われると腹立つんです。「誰が決めたんだ!なんで着るものの色を指図されなきゃならんのだ!いいかげんにしろ!」と思います。

そして、そこまでは行かないけど、やっぱり腹たつのがメガ・ヒット。なんで街じゅうで同じ曲繰り返し聞かされて、その上御丁寧に何百万人もそういうものを買うのだ!

こういうふうに品数を絞りたくなるのは供給者の本能です。私は在庫管理システムの開発でキャリアをスタートしましたから、商品点数が少ないと管理がどれだけ楽になるか、身にしみてわかってます。だから、売る側がそうしたがるのはわかる。

しかし、資本主義ですから、売る側の都合で決めたものを消費者が買わなきゃいかん理屈はないです。みんな自分の金で買うんだから、買いたいものを買えばいいはず。そこをねじまげるのが広告の力かもしれないけど、消費者の側が全く望まないことを強要するのは無理だと思うんです。

流行色とかメガヒットという現象の中には、消費者の側にみんなで同じものを買いたいという本能があるような気がします。商品にどういう魔力が宿るとそうなるのか不思議でした。また、資本主義や商品経済という仕組みは必然的にこういう性質を持つのだろうかという疑問がありました。

「緑の資本論」はアルバムタイトルにもなっている、この本で一番長い文章ですが、我々の目にする資本主義がなぜ宿命的にメガ・ヒット依存体質になるのかをときあかしているのです。さらに、全く違うかたちの商品経済があり得る、しかもこの地球上にすでにそれは存在しているという話なんです。それがどこにあるかをネタばらしする前に、もうひとつ例を出します。

「緑の資本論」のキーワードは「増殖性」です。資本主義はとめどもなくコピーして儲けようとする。その典型がマイクロソフトのビジネスモデルでしょう。ビル・ゲイツは全てのパソコンユーザにWindowsを使わせようとします。その全てのWindowsのコピーはもちろん1ビットたりとの違いもなく、本質的にコストゼロで生産され、全てのコピーが利潤を産み出す。資本主義のひとつの極限、ある意味での理想の姿と言えるでしょう。

このビジネスモデルの天敵がGPLです。GPLはソフトの商売そのものを否定するわけではありません。クローンされた全く同じビットの集積が、わずかづつでもいいから一つ一つ利潤を産むという、中沢さんが「増殖性」と呼ぶものを否定してるんです。

GPLにおいては、コピーは一切価値を産まない。そのかわり、パッチが、つまり差異が価値を産みます。単にソフトをインストールするのではなく、顧客に合わせたシステムをひとつひとつ作り出さないと価値が生まれてこない。

つまり、取引ごとにいちいち汗をかかないと利益が出ないわけです。このシステムには利益はあるけど、「増殖性」はありません。ひとつの商品が無限に、自動的に利潤を産んでいく構造は組込まれてないんです。


商人というものは、一つとして同じでないお客様方の欲望と、それに対応してこちらも千差万別の違いをもった商品を出会わせて、双方が「ああ、これはいい出会いでした」と喜んで商品を勝ってくれる、そういう出会いを手抜かりなく手配してみせる人間のことを言うのだ(P120)

これは、中沢さんが描くもうひとつの資本主義の描写ですが、まさにこういうことをしないとGPLから利益は生まれてきません。

顧客にの要望に合わせてソフトを変更することをカスタマイズと言います。カスタマー(顧客)の動詞形です。客の個別のニーズに合わせることをカスタマイズ(「客」化)と言うのですから、「客」というのは本来、千差万別の違いを持っている、ひとりひとりが独自の存在であるはずです。

そのように客を客として扱うことが可能な資本主義、そういう資本主義を可能にするのが、・・・それがなんとイスラムの世界観であるというのが、実に驚くべきこの文章のメインテーマです。上に引用した、GPLに適合しているように見える商人の姿は、イスラム圏の市場における商人の一般的な職業観だそうです。イスラム世界の市場では、今現在、毎日毎日このような取引が無数に行なわれているそうです。

普通は「なんでそこで宗教が出てくるの?」と思うかもしれませんが、私は結構納得しました。そもそも、メガ・ヒットを供給側から見るとコストの問題で合理的に説明がつくのですが、メガ・ヒットに群れる消費者側の心理は、合理的とは言えないし、外面の制約条件から仕方なくやってるというより、内面からわきあがる欲求につき動かされているように見える。合理的でなく内面から湧き出るものは、経済学的に説明するより宗教的に説明した方が素直です。

「増殖性」と中沢さんが呼ぶ、不思議な熱情は、これまた驚いたことにキリスト教から必然的に生まれてくるそうです。こっち側の説明は、さすがに宗教学者らしく謎めいています。

  1. エスは神の子であると同時に神性を持つ
  2. 地上に神と同質の存在が存在し得る
  3. 人間の知性がとらえる現実の中に無限がある
  4. 貨幣がこの世の無限のシンボルとなると同時に数えられるものとなる
  5. 数学的無限に向かって貨幣の増大をおこなっていこうという欲望が発生する

つまり、一神教の中でもキリスト教だけが持つ「イエスが神の子」という特色が、「三位一体」というモデルを通して増殖性につながっているという話です。


貨幣は世界を均質化する。一神教の神も「唯一の神」として、あらゆる質的差異をもったものを平等にして、自分の内部に包みこむ。

神とお金は似てるんでつながりやすい。有能な商売人であったモハメッドは、この危険をよく知っていて対して厳重にストッパーをかけておいた。しかし、キリスト教では「三位一体」という教義がむしろ、このつながりをドライブする方向に働いた。これが中沢さんの分析です。さすがに、このマッピングの正否は私には見当もつきません。

しかし、この対比図式によって、GPLのラディカルさ加減が明解になると思います。

「資本主義の否定」とか「宗教」とか言って、GPLの悪口を言っていた人は、そのことをよくわかっていたのかもしれません。

(追記) 読みかえしてみたら、どこが私の解釈や意見でどこが本文に書いてあったことなのか、ぐちゃぐちゃでわかりませんね。もともと私の書くものはぐちゃぐちゃなんですが、これは特にひどいような気がします。でも、書き直す時間や気力もないし、せっかくこれだけ書いて削除するのもいやなので、このままにします。いい本ですから、そこが知りたい人は、自分で買って読んでください。