社会科学の自己言及性

デスマぐるぐる巻き期間中に、svnseedsさんとnetwindさんから反応をいただいたのですが、ずっと返事ができずに不義理になっていた件です。復活宣言したのですが、またデスマの魔の手に狙われつつあって、今後どうなるわからないので、今のうちに簡単に書いておきます。まず関連エントリを並べます。

私としては、最後のnetwindさんのまとめがわかりやすかったです。内容的にもほぼ同意です。

  • 社会科学が対象とするものは「意思」をもって行動(反応)するという点
  • 実証的な分析に基づく主張と規範的な主張を分けなければならない(あるいは、なぜ分けなければならないか)という点

ここが混乱していると


合理的なプレーヤーでないと経済理論による制御が難しいので好ましくない

という発想が「科学的理論」あるいは「認識論的主張」の皮をかぶって出てきてしまうのではないか?というのが私の懸念する点です。それについては、svnseedsさんは自分の意図した所ではない、とおっしゃってますので、私が誤解していた所だと思います。しかし、では本意はどういうことだったのかということが、svnseedsさんの二つ目の記事からはよく読み取れませんでした。

netwindさんが書いていることが、svnseedsさんとほぼ同じであるなら、私はその両者に基本的には同意しますということで一応完結なのですが、netwindさんにもそこが確信が無いようです。私も微妙に違うような気がするのですが、どこがどう違うのか、うまくとらえられません。これについては、もう少し余裕のある時にゆっくり考えさせてください。

それで、これを考えながら思いついたネタをひとつメモ。

netwindさんが言う「意思」とは何かと言うと、その本質は「自己言及性」ではないかと思います。

例えば、Googleページランクは、社会学的な理論ととらえることができます。「WEBページの作成とリンク」という人間の行動を観察して、そこから一定の手続きで「有用な」ページを選ぶということです。

それで、この理論は、ネットの歴史の中である時点までは有効であったのですが、ある時点で、人間の行動が変化して、有効性を失いました。つまり、現在は、この理論をダイレクトに適用した結果から出て来るページはSEO対策されたページだけです。おそらく全く「有用なページ」は含まれていません。

これは理論によって、観察している対象の行動(特性)が変化してしまった為です。

ロング・ターム・キャピタル・マネジメントの破綻も、似たような要素があると思います。LTCM以前は、「ブラック・ショールズの公式」等高度な数学理論によって、債券の価格の変動に関する法則が成り立っていたのですが、観察されている系にLTCMが含まれることによって、その挙動が変化していくわけです。

それが、この不祥事にどの程度本質的に関わっていたのかはわかりませんが、仮にここでLTCMが破綻しなければ、「理論的に絶対儲かる資産運用者」としての名声がどんどん高まって、世界中の資金が全部そこに集まってしまうわけですから、どこかで、金融工学の前提が成り立たなくなったことは確実だと思います。

これは、社会科学のみに発生することです。例えば、エイズやガンの確実な特効薬が発明されたとしたら、それによって社会のさざまなシステムに大きな変化が起こると思いますが、どのように社会が変化しても、それによってその薬が効かなくなることはありません。医学の観察対象は、物質としての人間の体であって、その挙動は理論で変化することがないからです。

一般化すると、「観察対象が何らかの意味で『意味』を含んでいると理論が観察対象に含まれる」となります。ここで、『意味』と言っているのは、価格とかアクセス数のように人間の行動に関わる事項です。netwindさんが問題にされていることは、どちらも「自己言及性」が鍵になっていると思います。

「認識論的主張」とは、観察対象の外から、その対象の特性や法則を述べることですが、その主張が有効であれば、観察対象に変化を及ぼすわけです。あるいは、svnseedsさんが危惧されているように、「誰も望まないし理論的にも正しくない主張」が実現してしまうこともあり得ます。

社会科学の難しさは、人間の行動の複雑さや予測不可能性や概念のあいまいさや計測の困難さではなくて(これらをそれなりに扱う方法論は既に科学の中にいくらでもある)、「自己言及性」による不確定性ではないでしょうか。

だから、社会科学に携わる人は、このことをよく認識した上で、一定の節度と言うか抑制が求められるのではないかと思います。