社会科学の方法論反応clip

社会科学の方法論は「モダンな科学的アプローチ」に集約されつつあるかに、以下の答えをいただきました。

まず、私が直接お願いした、netwindさんとめたかさん。

それから、社会学の専門家の方から。

私の考えは、これらをじっくり読んでもう少し考えてからまとめます。

とりあえず、finalventさんの貴重な講義を、入口だけ自分なりに整理してみます。finalventさんによると、社会科学の方法論は何かということについては、基本的に二つの立場があって、ひとつは「米国的なアカデミズム」。


基本的に現代、とくに米国的なアカデミズムの流れで見るなら、自然科学と社会科学は方法論的に同じと言っていいと思います。つまり、それは、モデル化+数量化=対象操作可能、ということです。そして、その対象操作の予測に対する正否で理論の良さを評価するというのも同じです。すると、つまるところ、社会科学と自然科学は。対象の違い+その学問の派閥の歴史的な経緯、ということになります。

もうひとつの立場の代表として、ウェーバーの考えを次のように説明していらっしゃいます。


自然科学と社会科学の違いは、モデルの扱い方です。どちらもモデルを立てるのですが、自然科学は実験によるモデルの妥当性ということからモデルを評価していきます。これに対して、社会科学のモデルというのは、社会とはあくまで人間が組織したものですから、その人間の行動を支配する思考のモデル(これをウェーバーは理念型と言います)ということになります。漫画化した例では血液型も理念型の一つです。A型はこういう行動をする、というわけです。そこで、こうしたモデル=型の思考の内部に研究者が入って、どのように行動するかを自分の主観で考えてよいのだ、というのが、ヴェルト・フライハイト(価値自由)ということです。主観なんだけど、理念型の縛りを掛けるところがところが社会科学だということです。

「モデル=型の思考の内部に研究者が入って」という所で、このツッコミを思い出しました。


ずぶずぶの文科系世界で生きているものにしてみれば、「中立」や「最適解」や「客観」や「公平」や「語の定義」の存在を信じられる「確実主義者」の人々の方が、危機感はあっても楽観的でうらやましいです。

「『確実主義者』はこういうことを信じる」という形で、相手方の行動のモデルを想定して、その行動体系の中に自分が入る所から、「楽観的」という言葉(「確実主義者」の気分を自分が仮想体験した上でその時の気分を主観的に表現している)が出て来るのではないかと思います。次のように、こういう発想法は文系ロジックさんにも共通しています。


その文系の議論を見て技術屋系は「まどろっこしい。はっきり結論を出せや」と文句を言いたくなる

一方で、「議論の上で僕を納得させてくれればいいと思う」(netwindさん)「他の方法論があるなら教えて頂きたい」(めたかさん)と言うお二人は、自分の位置から他の方法論を客観的に吟味したい、というスタンスに思えます。

学問としての文系/理系の区分は、全く実情を反映してなくて有害なものになりつつあるというのは同感なんですが、考え方のパターンとして、文系/理系でくっきり分かれるなあと思いました。ウェーバーは、このような意味での文系的な発想をいかに学問としていくかを徹底的に考察したのではないかと思います。