ひきこもりのための安楽死(尊厳死)

なんとも途方もないような重い話ですが、id:ueyamakzkさんにとってはすごく現実的な話ではないかと想像します。ひょっとしたら、ueyamakzkさんは、それ以外に苦痛から逃れるすべを持たない人の顔を具体的に何人か思い浮かべながら、こういうことを考えているのかもしれません。


ひきこもりというのは、社会参加や職業生活に関する完全な無能力であり、かつ激痛をともなう。

誰でも、能力の無さを感じることはあるし、職業生活の中で痛みを感じています。しかし、その痛みには入口と出口があります。たいていの人には、自分より偏差値が上の人もいれば偏差値が下の人もいます。痛みを他人に受け渡す手段も、数パターンは確保している。普通の人には、差別や暴力は自分の中を通りすぎていくものです。

しかし、比較級で社会や経済が成り立っている以上、集団の中に極小値は存在します。理論的には、人間と人間を比較することが可能であるとしたら、そして人間が有限個しか存在しないのであれば、「引きこもり」のような存在は避けられません。それは数学的に証明できる事実です。極小値を引き受ける人は、痛みや無能力を一方的に受け続けなくてはなりません。

出口の無い痛みは出口のある痛みとは全く違う。そういう痛みを避けることができない仕組みがこの社会にはあります。比較の基準を変更して、「引きこもり」を救うことは可能です。それは試みるべきでしょう。しかし、それをしても別の人が別のかたちで最小値を引き受けることになります。


「本当にダメな人」を放置するのは、苦痛の実在そのものを社会的に否認する(なかったことにする)ことであり、暗黙に「野蛮な形で自殺するか、野垂れ死ね」ということ。 それこそ非人道的に思えます。

出口の無い痛みから逃れる為の支援は、絶対に必要です。これは、悪用されやすい論理なので安易に言うべきではないですが、本質は全く正しいと思います。

「有限の要素を対象にした推移律を満たす比較」は必ず特異点を産む、そして流動性の高い現代社会は特異点の露出しやすい社会なんだと思います。そこまでは論理的必然です。問題は特異点にも顔があることです。具体的な顔のある問題としてこの問題をつきつけられたら、私はどうしたらいいのかわかりません。