ハウルの軽やかな獣性とソフィーの清らかな鈍重さ

ハウルは、二つの相反する特性を持った存在です。ひとつは軽やかさ。それは飛翔する場面や時空を通り抜ける魔法の数々として表現されています。もうひとつは、魔王に変身したハウルによって象徴される全てのものを解体し食らい尽くす恐しい力。

この二つの特性は、Web2.0における集団知が重ねあわせて持っているものでもあります。集団知は、固定した視点や特定の原理に縛られません。常に、多面的に物事に対処し、軽やかに新しい立場を創造し続けます。そして、それがスタティックな物事を解体する力となった時の作用には、恐しいものがあります。その破壊的な力を留められる力はありません。

このような一致が起こるのは偶然ではないでしょうが、宮崎さんがネットやWeb2.0を熟知して、その物語の構造にそれを投影したわけでもありません。そうではなくて、どちらも現代社会の背後にある集団的な力を反映しているのだと思います。Web2.0という動きが発生したのは、経済や技術の必然ではなくて、集団としての人間が、そのようなものを熱望する種を持っているからだと思います。宮崎さんのような芸術家は、その力を顕在化する前にキャッチして、それを象徴的な形で表すことができます。それが、ハウルの持つ二重性だと思います。

そして、このハウルの「軽やかな獣性」には、ソフィーの「清らかな鈍重さ」とでも呼ぶべきものが対置されます。

ソフィーにも二面性があります。ソフィーは、少女の上に老婆をかぶせた存在として描かれています。老婆としてのソフィーは、非常に頑固で鈍重です。関節が固く動きが鈍く何事にもスローな反応しかできません。その頑固さは、ハウルと対比されることで一層強調されています。「ハウルの動く城」は、そのソフィーが自分の頑固さを解体して、内面に持っている清らかさを再生する物語です。

ハウルWeb2.0はともに、単独では目的を持てない存在です。どちらも、目的が無いままでは、次第に軽やかさを失ない獣性に支配される運命にあります。その運命に逆らうためには、どちらも「守るもの」、つまり目的としてのソフィーを必要とします。

集団知と対置される個人としての人間は、ハウルの前のソフィー婆さんのように鈍重で頑固です。しかし、個人としての人間がいることで、集団知に目標が設定されます。そのような存在だけが、集団知から獣性が発現してしまうことを留める力を持ちます。

現代社会に生きる人間は、常に、集団知の中に自分を埋没することで力を獲得しようとする傾向と、そこには収まりきらない自分の中にある何かとの間で引き裂かれています。ソフィーは、その何かを象徴する存在だと思います。

もし、既存メディアに役割があるとしたら、ソフィーのこの相反する特性に対応したものになるでしょう。既存メディアだけでなく、ネットの中で集団知のようなものが目覚めることで、政治、芸術、経済等、さまざまな分野でたくさんの組織や役割が解体の危機に直面するでしょう。そして、そういう組織は、自らの中での個人の役割を再定義することで、ハウルに対するソフィーのような存在として、自らを再生することを迫られます。

同様に、個人としての人間にも、自分の価値を再発見し再生することが必要とされています。

現代社会は、人間を老婆のように邪魔で無意味で無能力な存在と見なしがちです。それは、社会が個人を見る視線であると同時、個人が自分を見る視線でもあります。そして、その傾向は、ネットの発展によって、より一層進むでしょう。個人はこれまで以上に、自分が無価値であることを思い知らされることになります。

しかし、ソフィーが老婆に見えるのは呪いの効果でしかありません。その呪いを解除することは、強力な魔法の力を持つハウルにとっても不可能なことですが、ソフィー婆さんとソフィーは二重移しで同時にそこに存在しています。

その二面性に気がつき、そこに積極的な意味を見出すことが、この時代を生きる我々がしなければならないことです。

おそらく、我々は今、宮崎さんが予見した長いプロセスの最初の段階にいます。ハウルの動く城は、町の外に遠く見えるだけで、人々は、その実体を知ることなく、ただ恐しい存在として、ハウルのことを噂しています。ソフィーは、やっと呪いをかけられて老婆となった自分を発見してとまどっているだけです。まだ、多くの人々は、ネットについて遠くからただ恐しいものと噂し、ネットと比較して無力な自分にただとまどっています。

そして、この物語を動かし始めるのは、ソフィーの怒りでした。ソフィーは、自らの呪いについて語ろうとして、それ自体を呪いによって禁じられていることに怒りを覚えます。その怒りから、この長い物語は動きはじめます。

個人としての我々も最初に、自分を縛りつけるくせにそれについて語り得ないものについて怒りを持つべきでしょう。その怒りを持つことで、はじめてソフィーとハウルの物語、個人と集団知の物語は動きはじめるのです。そして、ソフィーはハウルと本当の意味で出会い、ハウルは「守るべきもの」を発見し、自らの獣性を制御することを覚えるのです。

今、そのプロセスが、一人一人の心の中で動きだしているのでしょう。我々は、ソフィーとハウルの物語を、ネットの中と自分の中に同時に見続けていくのだと思います。