「プロフェッショナル」は技能でなく職業倫理で認定される
河合隼雄が言っていたことだが、カウンセラーがカウンセリングの内容を口外しないのは、職業倫理であると同時にひとつの技能でもあるそうだ。「今日のクライアントがさあ、こんなこと言ってたんだよ」と家族であれ同僚であれ、それを漏らしてしまうことで失うものがあるという話。だから、絶対に漏らさないと思える人にもクライアントのことは言わない。
河合さんの考え方では、「こういうクライアントにはこう対応する」といういつでも100%対応できる都合のいい技法は無いということなので、実際、深刻な人の話を聞くと途方に暮れることもある。カウンセラーもクライアントと同じだけ途方に暮れているけど、同時に「人間には直る力がある」と信じている。途方に暮れているのと同時にその信念を保っていられることがカウンセラーの技能であり、人にしゃべることでカウンセラーの気持ちがクライアントから離れてしまい、その技能の妨げになる。そういうような話だった。
このような職業倫理と技能の関係は、他にも通じるのではないかと思っていたが、
私は同書を読むまで「噂の真相」こそブラック・ジャーナリズムであり、それがネット的な世界に蔓延してきたのが昨今の奇っ怪な情報の状況かもしれないとも考えていた。が、少し違うようだ。
スカッグスや西岡にはあるモラルがある。それはとても古典的な世界のなにかだ。だが、ほとんど同じものでも、その個人に帰着するようなモラルが欠損されたとき、変質するだろう。つまり、ネット上を浮遊する怪しげな情報に伝統メディアが信憑性を付与することになるだろう……と、ここはうまくまだ言葉にならない。あるいは、モラルが正義の確信に置き換わったとき、真理は敗退するだろ。しかし、モラルとは真理の優位性への確信であるかもしれない。
ここを読んで、やっぱりそうだと思った。
ジャーナリストは、技能や知識や経験でなくて、職業倫理、つまり彼または彼女が自分に何を誓ったか、ということで定義される。「誓い」の数だけ、ジャーナリズムの種類があって、「誓い」のレベルでジャーナリストのレベルが決まる。
これからは、大半の職業において、技能が高速道路化して、気のきいた素人にも勝てなくなる。だけど、それでプロフェッショナルが無意味になるかと言うと、ぜんぜんそうではなくて、一定の職業倫理を持ったプロフェッショナルは、ますます必要とされるだろう。
職業倫理を持つということは、ハウルのような軽やかさを失うということで、叩かれるマトになるということでもある。その痛みを引き受ける人に対して、社会は一定の信頼を持つ。その信頼が無ければ社会は維持できないだろう。集団知に欠けているのはおそらくその信頼であり、それだけである。
プロフェッショナルとは、軽やかな集団知に翻弄され嘲笑され叩かれることを引き受ける人たちのことであり、彼らが許容する叩かれ方の数だけ職業がある。そういうプロフェッショナルがいてはじめて集団知が機能するのだろう。