職業欄はエスパー

親友がオウム真理教に入ったりしたら「アイツはやっぱり馬鹿だった」と思うか「アイツが信じるならそこに何かがあるのかも」と思うか、そのどちらかを選択せざるを得ない。テレビの中で、いくら高学歴の頭が切れそうな人が麻原を賛美していても、「ふ〜ん。なんかヘンな奴」で終わらせることができるが、自分がそいつのことをよく知っていて、そいつがどういう生き方をしてどういう考え方をしてどういう感じ方をする人間か肌で知っていたら、そして、どう見ても自分が持っているそいつのイメージをオウムが結びつかなったら、何らかの考えの変更を迫られる。

そいつとオウムを引き剥がすか、そいつとオウムを両方「あっち側」にするか、そいつとオウムを両方「こっち側」にするか。引き剥がしてしまえば一番簡単だがそれはたいてい不可能に近い。だから、信じていたそいつを「あっち側」、つまり、「逝っちゃってる奴」とか「騙されやすい奴」とか「頭が良すぎて変な奴」とか、なんらかの形で自分の領分から追い出す必要がある。それができなければ、自分も信者になる必要はないけど、「極端ではあるが特殊な人たちには安心を与えるという最低限の存在価値のある宗教」みたいに、なんらかの形で自分の領分の中にポジションを作ってやる必要がある。

目の前で友達がスプーンを曲げてしまったら、これと似たような状況になる。「あいつがあんなことするとは!裏切られた!あいつは詐欺師だ」と言うか、自分の信念を変えて「超能力は実在するんだ」と言うか。「詐欺師」と言うには、自分と友達の歴史を全部否定しなくてはならないし、信念を変えるには、やはり自分の歴史を否定することになる。

自分の心をそういうふうに外部から捻り取られるようにいじくられるのは不快な経験だ。

森達也さんの場合は、友達がスプーンを曲げたのではなく、取材を通してスプーンを曲げる人を友達にしたのだが、その不快の質は同じだと思う。物好きにも彼はそういう不快の中に飛びこんで行って、それを題材に本を書いた。商売とは言え、ごくろうさんなことだ。

ただ、森さんの場合は簡単に結論を出さない。「超能力がある」とも言わないし「清田は詐欺師だ」とも言わない。目の前でスプーンを曲げられて(折られて)、それでも結論を出さない。見たことを拒否するわけではないが、受け入れて信者になるわけでもない。どっちにも傾かないのは、すごく居心地が悪いと思うのだが、頑固にその姿勢を守る。その姿勢のまま、少しづつ三人の心をとらえ親しくなっていく。内面や個人史を少しずつ開示させてしまう。言われてみればあたり前だけど、超能力者にも内面や個人史があることにちょっとした衝撃を受ける。

「超能力者の日常生活」というテーマでテレビのドキュメンタリーの取材をはじめて、それが放映されるまで数年間の紆余曲折。さらに後日談も含めて8年間に渡る超能力者3人(正確には一人はダウザーだが)との、さまざまな場面でのつきあいがこの本には書かれている。

文章は平易で読みやすく、テレビ出身だけあって、自然な流れの中にも読む人を飽きさせないような構成上の工夫もよい。超能力業界の裏話もいろいろあって面白い。どういう意味でも、読んで全く損の無い本だけど、私は森さんの頑固さをテーマとした純文学として読んだ。不思議な話も満載なのだが、この本に出てくる人の中で一番不思議なのは森さんだ。ここまで結論を出さずに生きられるのは、それこそが超能力であり奇跡だと思う。

スプーンを曲げる人の話でなく、心を曲げない人の話として読むことをおすすめする。

(参考:当ブログ内の森達也さん関連記事)