ローカルなネット文化を発信する意義

貴族と検非違使の話のポイントは、日本人は「穢れ」とか「言霊」のような原始的な心性を実用的な意識から切り離して、硬い殻の中に保存することがうまいということだ。

だから、葛藤をミニマムにして技術や社会の進化に適応することができる。

その代わり、精神の中に二面性があって、グローバルスタンダードへの過剰適応と排他的な攘夷意識の分裂に悩まされる。そういう意味で、明治維新と少し前の「Web日記対ブログ」の議論は、このパターンをなぞっている。「ブログ」の人が「Web日記」を存在しないものとして扱ったのは、そういう古代からの日本人の精神の伝統を忠実に受けついでいるからである。ローカリティを抑圧し「硬い殻」の中に押し込むことで、日本人は素早く外圧に適応してきたのだ。

ココに書いたことの続きになるけど、

のような、日本独自のWeb文化は、そういう伝統の名残りというか、遣唐使以来、ずっと繰り返されている、外国文化受容の時に発生するパターンとして位置づけられる。

もちろん、どこの国でも外国の技術を入れてそれに見合う社会を作る過程で、葛藤は起こる。しかし、「硬い殻」の無い社会では、葛藤を解決するまでグローバルスタンダードに適応できない。日本の独自性は、葛藤と適応が同時に起こって継続することである。

この「葛藤」の存在を、日本のアドバンテージとして考えられないだろうか?

グローバルスタンダードは、グローバルと言いつつ、アメリカの、アングロサクソンの、ヨーロッパのスタンダードだ。むこうには悪気が無くても、グローバルの中のローカルを客観的に見ることが難しい。それを指摘することができるのは、外部にいる人間である。

しかし、ネットの無い国で、たとえばトラックバックの仕様に無意識的に含まれているアメリカのローカリティを炙り出すことは無理だ。つまり、ブログと言霊を直接比較し相互参照することは無理だ。

できるのは、ブログとWeb日記の比較。

ブログはアメリカのローカリティを持っていて、Web日記は日本のローカリティを持っている。slashdotdiggにはアメリカ人の香りがして、2ちゃんねるには日本風の味付けがある。そして、両者ともにインターネットという最新のテクノロジーに立脚している点では同等である。これを統合することがもしできれば、それは、本当の(アメリカンでない)グローバルスタンダードに一歩近づいたと言えるのではないか。

今のところ、そういうことができるのは、日本だけである。やはり、日本独自のWeb文化を世界に向けて発信すべきだと思う。