社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」

私は、もともとかなりの読書好きで読むジャンルも幅広い方だと思いますが、当然ながら常に避けてきた分野もあります。今このブログを読んでいる人の中には信じられない人もいるかもしれませんが、「思想哲学」は特に嫌いな分野でした。図書館でもそのへんの棚に近づくと自然と足早になる(笑)だって、何回読んでも何言ってるのかちっともわからないんだもん。

「経済学」や「社会学」は全くの食わず嫌いではないですが、ビジネス書や時事問題の延長として読んでいて、本格的な学術書はもちろん、多少噛みくだいた新書レベルのものも、やはりほとんど読んでいません。

それが、40過ぎてから随分変わってきたんですが、その原因のひとつがブログかもしれません。いろんな人が読んだ本のことを書いていて、それを単独の書評としてではなく、その人がずっと書いていることの中で読み取ることができるので、自分にとって必要な本が何かということについて、すごく参考になります。特に自分の記事に対する応答の中に関連して本が出て来た場合は、その人がその本について言う意見の文脈とか信頼度がわかりますから、一般的な情報源よりずっと確実なんです。

難しい本を頑張って読んでハズレだと、かなり損した気分になりますけど、自分にとって当たりだとわかっていれば、チャレンジしてみようという気にもなります。

マックスヴェーバーなんて、charlieさんの推薦がなければ、絶対読まなかったと思いますが、charlieさんが「100回嫁」と言ってるのを見たら、岩波文庫でもためらいなくもうすぐ読んじゃう。やっぱり大当りでした。今私が読むとこの本は面白い、というか最近考えてたことが全部書いてあるような気がします。

マックスヴェーバーは、次のような考え方を間違った考え方として批判しています。


国民経済学は特定の「経済的世界観」から価値判断を生み出すことができるし、またそうしなければならない(P29)


実践的な社会科学は、なによりもまず「ひとつの原理」を確立し、それを妥当なものとして科学的に確証し、その上で、当の原理から、実践的な個別問題を解決するための規範を一義的に演繹すべきである(P40)


数多の党派的見地の総合によって、あるいは、それらの対角線上に、科学的な妥当性をそなえた実践的規範を獲得することができる、という重大な自己欺瞞(P42)

私は「市民」とは何かを問い直す装置としてのインターネットにおいて、高木浩光さんの 市民の安全を深刻に害し得る装置としてのWinnyに対して、まさにこのような批判を志していたような気がします。

高木浩光さんの記事は、マックスヴェーバーの言葉で言うと「社会科学」「認識論」という側面と「社会政策」「価値論」という側面があります。つまり、「WinnyとはあるいはP2Pとはどういうものか」という議論と、「WinnyとはあるいはP2Pに対してどういう規制をかけるべきか」という議論が両方含まれています。

高木さんの議論は、認識論としては明解で優れたものですが、それが価値論的な結論にダイレクトにつながっているような気がして、そこに私は疑問を持ちました。むしろ、優れた認識論は価値観における対立を我々に突き付けるものである、(そういう形で認識論は価値論をサポートする)と考えて、そのような側面を展開しようとしたのが上記の記事なのです。

再度リンクしますが、24-Hour Survivalの高木氏 vs 崎山氏?は、価値論としての両者の対立を簡潔にまとめていると思います。

さらに、マックスヴェーバーは、社会科学においては認識論も主体的な価値判断抜きには成り立たないと言っている(ような気がします)。「匿名性」とか「ファイル放流」といった、認識論を構成する概念自体が、価値判断を前提とした特定の問題意識から生まれるものだからです。

それで、私の上記の記事に対してnetwindさんが、匿名性について議論をする前に。で批判されて、そこからずっと議論が続いているわけですが、netwindさんは、私の混乱した文章の中から、正しく私の潜在的な(だってまだその時は読んでない)マックスヴェーバー志向を読み取って、まさにそこを批判されているような気がします。


このような問題をモラルや善悪の問題(さらにessaさんは権力闘争と言っているが)に持っていくと、問題解決の糸口を見失うことになる。これは効率性の問題だ。個々の経済主体の経済的利益だけでなく、どのような技術を選択することが社会全体の厚生を最大にするかという意味での効率性の基準で考えるべきである。

このnetwindさんの主張は、マックスヴェーバーの言葉に置き替えると「社会政策は価値観に関わる議論でなく社会科学の議論に集約させて論じるべきである」ということになるのではなかと思います。

また、繰り返し問題となっている「市民」という言葉の使い方についても、私としてはこれをヴェーバーの言う理念型に昇華させたいと努力しているのですが、netwindさんは実体と直接リンクしてない概念を使うのは適当でないと批判されているように思えます。現状、これがきちっと定義された明解な概念でないのは私も認めるのですが、それを修正しようとすると、その修正がnetwindさんの理想とする所と逆を向いていて、その食い違いがヴェーバーの概念で説明できるように感じました。

「市民」という言葉は、私が特定の問題意識、価値観に基づいて、高木さんの議論から抽出したものですが、ヴェーバーは、主観的な概念の提示自体はOKと言っているみたいです。もちろん、全面的によしとしているわけではなくて、理念型というレベルになるまでにはいろいろな条件があって、それには私の言う「市民」は合格しないと思いますが、「実体に直接対応してないから」「主観ベースで生まれた概念だから」という理由だけで門前払いになることはない、むしろ、それを排除したら社会科学は成り立たないと言っています(たぶん)。

もちろん、「ヴェーバー先生が言うから俺の勝ち」と言っているわけではなくて、むしろ、マックスヴェーバーは最近では旗色が悪くて?、アメリカアカデミズムから批判されているみたいなので、逆に、ヴェーバーを批判する論理に照らし合わせて上記の議論を見れば、逆の結論になると思います。

また、それ以前に、ヴェーバー先生が何を根拠にそう言っているのか、それが私自身よくわからない。理念型というも何なのかよくわからない。(「あたりまえだ。3日でわかってたまるか」と怒られそうですが)

ただ、私としては、自分の志向している所が明解になったし、少なくともトンデモレベルの見当違いを言っているわけではないとわかって、安心しました。charlieさんとfinalventさん、ありがとうございます。

最後にひとつ根本的な疑問。理念型にかかわる議論で「文化事象には無限の多様性がある」という表現が出てきます。これで気になったのが、デジタルデータには無限の多様性があるか?ということ。つまり、ネットというものはヴェーバーの言う社会科学の対象には入らないのではないか?という疑問があります。人間が扱うにはほぼ無限とみなしていいのですが、GooglePodは制御可能、計測可能です。