2的空間+ブログ+炎上耐性の一般教養化=最強!
面白かった!
これについて、ごく小さな異論を加えつつその続きを考えてみたいと思いますが、この文章は実にわかりやすくてスリリングな議論なので、是非、全文を読んでいただきたいと思います。
ここで、id:pavlushaさんは、「匿名で発言者の追跡が困難」→「細切れレスの蓄積を参加者が平等に評価した上で議論が進展」→「発言内容とそれが示す外部ソースのみによる評価」という2ちゃんねるの特性に着目し、これを抽象化した「2的空間」における議論の特性を分析されています。
2ちゃんねるで真面目な議論が行われる時に必ず出現するレスのひとつが、「ソースは?」「ソースきぼん」というものです。私の見る限り、ある発言者のレスに含まれる情報を、他の外部の情報源(多くはその場で他の参加者も見られるネット上の記事)によって確認しようとする傾向はかなり強く存在します。
議論における実証性と整合性の追求がこのような形でセットにされて、しかも議論参加者が少なからずそのセットを討議規則として共有している「2的空間」は、確かに一見したところ理想的な討議空間であるかのように見えます。
この場合、自分の主張の正当性を裏付けるものは過去の言行の蓄積でもそれによって間接的に得られたヒエラルキー的地位でもなく、皆の目の前の“今・ここ” で発言者が発した、この瞬間の言動そのものしかありません。しかも、その言動を読むのは気心の知れた相手ではなく、「中卒ニートのビザデブ(仮)」コスプレを身にまとった不特定多数の誰かです。従って、もし自分の主張の正当性を皆に認めてもらいたいと望むのであれば、発言者はこの瞬間の言動を、不特定多数の誰かにもその正当性が伝わるような形で組み立てなければなりません。
そして、この「2的空間」で自然発生的に共有されている「論理的整合性+実証性」という評価基準の長所と限界について、次のように主張されています。
2ちゃんねるでしか議論できないもの、そこまで言わなくとも2ちゃんねるの空間が議論する上で特に適しているものとは、上で書いたように整合性と実証性が特に重視される議論対象です。論理と検証結果だけを互いにぶつけて後腐れなく議論を展開でき、ガリレオのように後で異端の故に宗教裁判にかけられる恐れもない匿名の討議空間と言うのは、「世界が如何様に成立しているか」「事実は如何にあるか」「それは何か」「それはどのようなものか」という事実命題だけを追求するのであれば、議論の場として確かに優れた特性を持っていると言えるでしょう。
ところが、議論の内容によっては、この優れた特性が逆転して大きな足かせになるケースがあります。
「2的空間」が持っている討議空間としての特性は、事実命題の討議においては整合性や実証性の確保において高い能力を発揮しますが、意志決定に関する討議においては他律的・外部依存的になりやすいと言えます。
もし、全てのレスが発言者も何もかも完全に断片的であったとしたら、援用される理論そのものの討議を行うことは不可能となります。何故なら、完全な「2的空間」において全ての討議は一度きりの発言の蓄積になるため、討議はその理論の採用に対する賛否を問う単純多数決の人気投票にしかならなくなるからです。仮に意見に対する反対意見が出ても、最初の発言者はそれに対する更なる反論を行うことが出来ず、仮に行っても、完全にレスごとに断片化された空間では、それは再反論ではなく第三者の新たな意見表明に過ぎないものとなります。それは特定の理論に対する支持の多数性を保証しますが、妥当性についてはなんら保証しません。
ほぼ同意しますが、私なりにまとめると、「匿名性があって継続性がない『2的空間』は、議論を解体する機能は最強であるが、価値や合意を組み立てる機能はない」ということではないかと思います。
私は、2ちゃんねるで複数人が議論していて、それなりに議論を展開しているケースを見たことが何度かあります。そういう意味では、「再反論が継続した議論にならず、分断化された別の意見になる」ということが常に成り立つとは思いませんが、ちょっとだけ一般化すると、これは重要なポイントになると思います。
匿名の議論において、ある「主張」に対する「反論」があり、さらにそれに対する「再反論」という展開があった場合、それが「再反論」とみなされるのは、最初の「主張」と「再反論」をつなぐロジックのベースや価値観が、参加者全員に広く共有されている時に限ります。その価値観とは多くの場合、id:puvlushaさんがおっしゃるとおり「論理的整合性+実証性」のセットです。そのセットのニュアンスと、援用するソースや前提について何を権威として認めるかについては、板やスレッドにおいて様々なバリエーションがあります。その微妙なズレによって、それなりに進行していた議論が、思わぬ横槍によって崩壊してしまうこともあります。
つまり、「2的空間」における議論は、共有する前提の確かさを破壊的検査によって確認しながら進行していくわけです。それが参加者全員の横槍にもビクともしなかった例外的なケースにおいては、最良の論理実証主義的な議論になり、そうでない多くの場合は、共有していると思っていた前提がくい違っていたことを参加者全員が確認し、自分たちの議論が崩壊していくのを見ることになるわけです。そして、烏合の衆がそれぞれ他の人と全く関係なく好き勝手なことを一方的に主張しているだけの無意味なスレになってしまうのです。
結論。「2的空間」において調停や合意や集団的意志決定を目的とする討議を行なう場合には、「2的空間」外部に属する非匿名的要素が、継続性・連続性を担保するものとして要請されるのではないでしょうか。
この結論にはほぼ同意します。「調停や合意や集団的意志決定」には、議論を解体することではなく組み立てていくことが必要です。そのような機能は「2的空間」にはないでしょう。むしろ、「2的空間」の「解体作用」の意味を確認し、それを何で補完するかが重要ではないかと思います。
まず、「調停や合意や集団的意志決定」という広義の政治プロセスが、何故、今はうまく機能していないのか?
それは、調停や合意形成のプロセスそのものが信頼されてないこともありますが、そのベースとなる個々の主張が信頼されてないことが主たる要因ではないかと思います。
たとえば、名称に「平和」という単語が含まれているような団体は、私はデフォルトで不信の目を向けてしまいますが、そのような団体の主張する「平和」とは、どのような文脈でそのような意図を持つ「平和」であるのか。そこに漠然とした不信がある為に、そのような団体の支援を受ける政党が不信の目で見られ、信頼されてない政党による議会政治のプロセス全体が不信の目で見られます。
だから、全ての政治的主張が「2的空間」の「解体作用」の洗礼を受けることは重要であり、そこを通ってはじめて、信頼される「合意形成」のプロセスが始まるのではないかと思います。
そして、それを補完すべき「継続性・連続性を担保するもの」は、「非匿名的」である必要はないと思います。おそらく、puvlshaさんは、単に、ある発言とその発言者の過去の発言をリンクする機能を「非匿名的」と呼んでいるのだと思いますが、匿名のブログでもアーカイブがあれば、その機能は果たせます。
むしろ、ブログの本質はアーカイブとパーマリンクであり、それは、理論的にも現実的にも、「調停や合意や集団的意志決定」の基本的な構成要素なのではないかと思います。
ただ、ここで問題なのは、「2的空間」の「解体作用」の魔の手はブログにも向けられること。具体的には「炎上」です。
「炎上」という問題が無ければ、「事実をベースとした『実証的議論』は『2的空間』で、価値に関わる合意形成は『ブログ』で」という棲み分けで全てが解決しますが、「2的空間」を放置することは、ブログを「炎上」させることで、合意形成の妨げとなる可能性があります。かと言って、その、その解体作用の基盤である匿名性や「『中卒ニートのビザデブ(仮)』コスプレ」性を抑制することは、「解体作用」を弱め、やはり、議論のベースとなる多数から信頼される主張の生成能力を、社会全体として弱めることにつながります。
puvlshaさんの枠組みを参考にしつつ考えると、「炎上」が問題になるのは、次のような点ではないかと思います。
- 攻撃側には「継続性」という余分な負担がなく、守備側は常に過去の発言との整合性をチェックされつつ議論するという点で、フェアでない
- 人格攻撃や個人情報の暴露やマシンの負荷による妨害等、「言論」のレベルをはみだした攻撃
- 価値に関わる主張に対して、「論理的整合性+実証性」という特定の価値観の押し付けを含む反論が行なわれること
これらの問題点それぞれについて個別に対策を考えるべきだと私は思いますが、一番大きな問題であり哲学的な問題を含んでいるのは、最後の価値観の問題ではないでしょうか。
つまり、私が一番不思議に思うのは、なぜ「炎上」したブログは閉鎖してしまうのか?ということです。
馬鹿が繰り返し馬鹿なことを言っているだけだと思うならば、放置しておけばいいのではないか、私はいつもそう思います。なぜそれにいちいち反論して自爆して最後に閉鎖してしまうのか。
現実的には、上記の1〜3の問題が全部からんでしまうので、一概には断定できないのですが、「2的空間」の思想的バックボーンである「論理的整合性+実証性」が思想空間において専制をしている、そういう潜在的な問題が「炎上」という現象の背後にあるような気がします。
つまり、価値に関わる主張をする人は、内心では、「論理実証主義」に対してひけめを感じつつ、それに反する主張をしているのではないでしょうか。だから、「炎上」によって多数の馬鹿コメントが押し寄せてきた時に、ごく少数であるが、その「ひけめ」に対して痛撃となるコメントがあって、その為に(でも別の理由を口実にして)閉鎖するのではないか。
これは、昔から漠然と感じていて、うまく言語化できなかったのですが、puvlshaさんの見事な分析を見て、それを展開すると説明できるかもしれないと思った仮説です。
もうちょっと言えば、「2的空間」とはそれ自体が何かの価値観を内包しているものではなくて、一つの「センサー」あるいは「濾過器」のようなものであるということです。「2的空間」において「論理実証主義」が支配的であるのは、それが現代人に共通する無意識的な本音を抽出しているだけなのかもしれません。そうであるとしたら「炎上」という暴力も、「2的空間」の本来の性質ではなく、我々が潜在的に共有している暴力性がたまたま「2的空間」を通して露出していると見るべきだと思います。
エンジンがオーバーヒートしている時に、針が振り切れている水温計を取り去れば問題が解決するものではありません。
むしろ重要なのは、ブログの炎上耐性を高めるような啓蒙ではないかと思います。その為には、「炎上」が含む暴力性の内容をきちんと分析し、それが依拠する一元的価値観を解体していくことが必要なのではないでしょうか。それは、思想的な課題であると思います。ブログを書く側が、本当の意味で価値観の多様性を認めていれば、特定の価値観の押し付けは恐くもなんともありません。むしろ、「2的空間」や「炎上」が持つ解体作用をうまく自分のツールとして活用できるのではないでしょうか。
まとめ
- 「2的空間」には強力な「解体作用」があり、その作用によって、他のものが解体された結果、現代の思想空間上で最も解体されにくい「論理的整合性+実証性」が議論のベースとして残り、自然発生的に共有されている
- 整合性と実証性が特に重視される議論対象には「2的空間」は適する
- 調停や合意や集団的意志決定を目的とする討議には「2的空間」は適さない、ただし、その「解体作用」は出発点として必要
- 「ブログ的継続性」によって「2的空間」を補完すべきだが、「炎上」という問題が両者の共存の妨げとなる
- 「論理実証主義」(的なもの)、あるいは何らかの一元的価値観の思想的専制が広く受容されていることが、「炎上」の有効に作用する理由である
- ブログの「炎上耐性」を高めるような思想的啓蒙が必要とされている