インターネットと公共哲学

これは、山脇直司『公共哲学とは何か』合評会における問題提起として書いたものです。内容的には、このような場に出せるレベルのものではないと思いますが、現場の技術者がこのような発言をする機会もあまりないと思いますので、できれば、この中のどれかのテーマについて、簡単に発表させていただければと希望しています。

ただし、本文にも多少書きましたが、私としてはこの会で、ルーマン的な立場から金田さんがどのようにこの本を受けとめているかということをお聞きしたいと希望しています。また、それについての、金田さんと山脇先生の対話に多くの時間をかけていただくことを望んでいます。

何も用意せずに参加して、ただ一方的に聞くだけで終わってはもうしわけないと思って、無理して書いたものでもありますので、私の問題提起については、「おまけ」「前菜」的な扱いで充分です。

はじめに

私は、ソフトウエア技術者として自分の仕事について考えていくうちに、この分野に興味を持つようになりました。ソフトウエアやインターネットについて深く根本的に考えようとすると、単なる技術という問題でなく、人と人との関わりという観点で考えることが必要になります。

そのヒントや枠組みとなるものをいろいろ探している中で、公共哲学というものの存在を知りました。

そして、「公共哲学とは何か」を読んで、「これだ!」という思いと同時に若干の不安あるいは失望のようなものも感じました。その期待と失望の両面についてまとめてみました。

グローバルパブリックグッヅ

私が「公共哲学とは何か」を読んで最も大きな収穫だと思ったのは、「グローバルパブリックグッヅ」と「民の公共」という概念です。この二つの言葉は、インターネットの背景にあるべき哲学を端的に表していると思います。

インターネットは、経済や文化の側面で多くの人に影響を及ぼします。これが安定して機能しなかったり、特定の人の意向で恣意的に運用されたら、非常に大きな問題です。

また、それは本質的にひとつの国の中におさまるものではなく、それをコントロールする主体を世界全体のユーザの合意で作らなくてはなりません。

そういう意味でインターネットは典型的な「グローバルパブリックグッヅ」ではないかと思います。また、googleamazonのように多くの情報が集まり、多くの人がその集積された情報を辞書のように使用するサービスも、「グローバルパブリックグッヅ」に相当すると思います。

私は、次の二つの文章で、代表的な公共的サービスであるGoogleの権力としての側面、それが恣意的に運用されたらどんな問題が生じるかについて書いています。

こういうサイトがどうあるべきかということは、技術や経済の問題でなく、世界全体に関わる公共物として考えていくべきだと思います。

HowとWhatの不可分性

「公共哲学とは何か」にも、公共哲学の課題として科学技術の問題について書かれており、インターネットがそのひとつであるという記述があります。

しかし、インターネットには、公共哲学的課題として生命倫理や環境問題とは違う特性があります。私は、それを「HowとWhatの不可分性」と位置づけたいと思います。

例えば、核兵器相対性理論量子力学という最先端の物理学で作られていて、その原理を理解することは容易ではありませんが、その政治的、社会的な意味あいを把握することは容易です。それは基本的には強力な兵器であって、破壊力がこれまでと桁違いに強いことと、人体や環境に対する影響が長期的に残存することを意識していれば、それをどう管理すべきかについての議論が可能です。

クローン技術についても、それを可能とする技術やメカニズムは、専門外の人にとって大きな謎ですが、その技術が何を産むかということについては、「一卵性双生児を後から作ること」というレベルの理解で考えても、本質的な間違いにつながることはありません。

つまり、大半の技術においては、How(それがどのような仕組みで実現されるか)ということと、What(それが何であるか、どのような作用を産むか)を分けることが可能です。従って、専門外の人でも、Whatの側面に焦点をあてて、倫理的、法的、政治的にどのような対応が求められるかについて、考えたり意見を言うことが可能です。

それに対して、インターネットの中にある公共的サービスというのは、HowとWhatが密接に関係しています。

Google八分の刑で、私が本当に言いたかったことは、「Googleが自分のサイトの表示順位を恣意的に変えたら困る」ということではありません。「Googleには、特定のサイトにリンクを貼らせないように誘導する力がある」ということです。

これについて議論するには、How、すなわち、Googleが現在のサービスを実現させている仕組みについての理解が欠かせません。Howをこう変えたらこれが起こるという主張なのですが、その帰結について理解してもらう為には、現在のHowと、私が危惧するHowの変更について、ある程度内部のメカニズムに立ち入った説明が必要です。

また、P2Pという新しいシステムについては、「匿名の政治的発言(内部告発)の保証」と「プライバシーの漏洩防止」という二点が主要な論点になります。その意味では、メカニズムと関係ない社会的な問題を抽出できるのですが、問題は、これが両立できるかできないかということです。

両立できるのであれば、その方向で社会的な合意が容易に得られるのですが、両立できない場合、どちらを優先するべきかという課題は、国家主権というものをどう位置づけるかという、非常に政治的な課題になってしまいます。

技術者の側は、両立の可否を早急に検討した上で、社会に選択を問うべきだと思うのですが、これが技術的に非常に難しい最先端の難題になります。そして、ソフト関連の技術というには、純粋に演繹的、理論的に決定できるものではなく、試験的に実装して公開し、ユーザからのフィードバックによって発展していくものです。

ですから、Whatの側が「両立可能か?」と聞くと、Howの側としては「まずやってみないと何とも言えない」と答えるしかなくて、両立可能と見る人とそうでない人が、同じ土俵で混乱した議論をするというような状態になりつつあるように思えます。

私は、P2Pという技術についてはHowについてある程度理解していますが、中立的にWhatレベルの問題を抽出するという困難を感じています。逆に、RFIDとプライバシーという問題については、出遅れてしまって議論を追いかけているのですが、Whatレベルの情報には、常に推進派/反対派それぞれの立場が反映されていて、やはりかなりHowに立ち入らなければ、公平な判断ができないという気がしています。

このように、インターネットの公共性を考える場合、技術者の側からは、倫理的、政治的に中立の立場でHowに関する情報を提供するという課題があって、非専門家の側には、Howに関してある程度理解した上で、倫理的、政治的な価値判断をするという課題があります。どちらについても、学際的な視点や倫理、哲学的な基礎教養というか、幅広く共有されるべき土台が必要だと思います。

公共哲学にとっての課題として、HowとWhatの不可分性という点で、インターネットは他の科学技術より切実で深い問題を含んでいるのではないかと、私は考えています。

言論の場としてのインターネット

また、もうひとつのインターネット独自の特性として、それが言論に直接関わる問題であるということがあると思います。

私は、2ちゃんねるをはじめとした匿名の議論も、「言論」として一定の評価を与える立場ですが、それについてはここでは除外して、「公共哲学とは何か」で認められている「基本的人権・市民的徳性・応答=責任」を満たすような「言論」というものを前提として考えてみます。

現在、インターネットは動画や音声も実用レベルで処理できるようになりつつありますが、やはり主流は今でもテキストデータです。動画や音声にアクセスするにも、言葉による案内や評価が欠かせません。むしろ、ネットの普及は言葉というものの価値を再確認することにつながるように感じます。

インターネットにおける「言論」というと、匿名掲示板のような従来と違うタイプの言葉が主流となっていますが、これは単にシステム上の問題です。つまり、プログラムをどのように設計しどのように運用するかの選択の問題で、匿名の誹謗中傷が行きかうことはインターネットの技術と分離できないことではありません。

むしろ、「理想的な対話のあり方」について、公共哲学のような形で定式化され、社会的合意が得られれば、技術的にそれを実現することは充分可能です。

もちろん、言説の価値判断を完全に機械的に行なうのは不可能ですが、例えば、少数の「言論の質を判断できる人」が判定した結果を、機械的な手段で多数の人が共有するような手段ならば、現在の技術で充分可能です。

具体的な例をあげれば、「クラスタリング」という開発されつつある技術を使うことで、例えば、公共哲学ネットワークを起点として、公共哲学に関連するページを幅広く集めることができます。もちろん、完全なリストアップでなく多少のノイズ(無関係のページ)もまじりますが、「現在、公共哲学との関連に双方が気づいていないけど、重要な関心事項を共有する人たち」のページを、リンクや用語を統計的に処理することで機械が探し出すことは可能です。

もし、公共哲学ネットワークが「民の公共」を代表する立場として、その重要性について社会的な合意が得られたとすると、それに関連するような有用なページを機械がさまざまな場所で優先して表示し、多くの人にそのようなメッセージを届けることが可能になるのです。また、潜在的にそのような興味を持ちながらも「公共哲学」の存在を知らない人に、幅広く対話を呼びかけることが可能になります。

ただし、これが可能であるということは、逆のことも可能であるということです。公共哲学ネットワークに対して反感や悪意を持つ存在がインターネットに影響を及ぼすことができたとしたら、これと近い価値観を持つ人たちを、インターネットの中から、知らないうちに排除していくことも可能になるわけです。

つまり、「公共的な議論」と「技術」の関連として抽象的に言うと、他の「技術」は、「公共的な議論」の対象であるのに過ぎず、「技術」が直接的に「公共的な議論」に影響を与えることはありませんが、ネットは「公共的な議論」の対象であると同時に、「公共的な議論」を加速したり、逆に妨害したりことが可能であり、これからそれを形作る場になっていくという、重大な使命があります。

そして、これが出版物や放送の支配と比較して、非常に微妙なコントロールも非常に強力なコントロールも共に可能であるということが重要です。「公共哲学ネットワーク」を本人たちにもわからないような形で、少しづつ静かにネットから抹殺することも可能であるし、逆にあからさまに徹底的に排除することも可能です。

空想的な杞憂のようですが、もし「公共哲学ネットワーク」が世界的な影響力を持ち、各国の世論を左右するような存在になったとしたら、それは、充分あり得る話だと思います。

インターネット上の多くのサービスはアメリカの私企業によって運用されていて、アメリカ政府は常に多国籍企業と連動して、世界的な戦略を実行しています。世界的に世論の力が大きくなっている中で、湾岸戦争の時のテレビによるプロパガンダのようなことを、ネットでやるのは当然予想されることです。シリコンバレー的なハッカー集団をどのようにコントロールするかという困難はありますが、GoogleAmazonも単なる私企業ですから、それを動かすのは全く不可能ではないと思います。

「公共的な議論」とインターネットの関係は、双方向的で密接な関係であるということが、もう少し意識されるべきではないかと思います。

言論を縛る力としてのインターネット

経済学的に見たインターネットの特性は、「ロックイン」とか「収穫逓増の法則」と呼ばれるものです。つまり、放置しておくと独占を産みやすい構造があるということです。

これは企業活動のみではなく、学問の世界にもこの傾向が及んでいます。例えば、CrossRef Searchというプロジェクトがありますが、これは論文等の学術情報をGoogleの処理しやすい形にまとめて、Googleに提供しようというものです。

もちろん、Googleも協力して何らかの作業をするでしょうが、これによってGoogleの得る利益は非常に大きいと思います。つまり、このプロジェクトによって、従来、不十分にしか提供できなかった学術情報が、ユーザにとって使いやすいように検索結果に含まれるようになるわけです。そのような情報を必要とするユーザから見たGoogleの利便性はかなり向上するわけで、Googleのプレゼンスは大きくなります。

もちろん、このプロジェクトの成果物は公的に公開され、他のサーチエンジンでも使用されると思いますが、技術的な詳細において、その仕様はGoogle社の意向が反映され、同社にとって最も使いやすい形式になっているものと想像されます。

このように、ネットの情報サービスにおいては、独占的地位を占める者は、何の労力もかけずに、多くの情報が自然と集ってくることを期待できるのです。そして、集った情報は、さらにその独占的地位を向上させ、さらに情報を集めるという正のフィードバックループになります。

今後、さまざまなイノベーションによって、さらに多くの情報サービスが生まれてくると思いますが、多くのジャンルでこのように特定のサイトがひとり勝ちする傾向は強まるでしょう。

そして、「公共的な議論」はそのようなサイトを主要な媒体として行なわれていくと思われます。ですから、これが特定の企業や個人の恣意的な意向によって歪められることがないよう、社会全体の合意のもとで監視しコントロールしていくことが必要だと思います。

また、このようなサービス自体に含まれる技術的な仕様やアルゴリズムが、その上で行なれていく言論の傾向を規定する可能性も重要です。例えば、「自分にとって不快な情報を遮断するサービス」というものが、迷惑メール排除などに使われている現在の技術を少し発展させることで可能となります。このようなものが実用化され広まった場合、意識しないうちにインターネットの中が党派に分かれ、異質なもの同士がぶつかりあう議論が抑制される傾向が強まるかもしれません。言わば「学問・思想のタコツボ化支援システム」です。多くの人にとってそれは今までより快適なインターネットになるわけですが、社会全体として創造的な議論が生まれにくくなり、場合によっては「言論」というものの死を意味するような事態となることもあり得ます。

独占的立場のサービス提供者が、ちょっとしたプログラム変更を行なうだけで、意図せずにそういう方向づけが起きてしまう可能性があるわけです。

対話の方法についての合意

以上のように、インターネットやその上で展開される情報サービス群は、また、それらが経済的合理性や利便性や技術的な視点を超えた、政治哲学、法哲学的な観点から正統性を持って運用されるべきです。

しかし、その為には、どのような理念によって制御され運用されるべきか、ということについて、社会全体として何らかの合意を得なければなりません。そして、それは単なる多数決ではなく、技術として、また、社会思想として、両面から合理性を持っていなければなりません。

一般的な考え方としては、そのような合意は政治というシステムの課題です。

つまり、そのような問題は政治的な問題としての討議を経て、法律として制定され、行政がその法律にもとづいて企業活動に一定の制約を与えるという形で、実現されます。しかし、インターネットについては、次の点で既存の政治システムには解決できない問題があります。

  • 本質的に地理的な制約がなく、国家主権の範疇におさまらない
  • Howが複雑でダイナミックな為、政治的、法的システムの対象としてのWhatを抽出できない
  • 制限とそれが与える結果との因果関係が予測できない
  • 合意の結果がアルゴリズムという形で実装された場合、その影響が甚大である

従って、合意されるべきものは、特定の政策や法律ではなくて、むしろ、状況に応じて柔軟に対応できる「対話の方法」ではないかと思います。

つまり、技術を含むさまざまな分野の専門家と一般の人が、同じ土俵の上で、情報の提供をしつつ議論をするというような、そういう場が必要ではないでしょうか。また、「文化的・歴史的多様性のなかで国家の枠組みを超えた人類の課題と取り組む(「公共哲学とは何か」P210)」為にも、「新しい対話のあり方」が作られるべきではないかと思います。

倫理かシステムか?

私が、「公共哲学とは何か」を読んで一番疑問だったのは、開かれたコミュニケーションと倫理的規範の両立です。「コミュニケーションによって創出される公共世界」や「異質な他者を承認する」「多文化的コミュニケーション」と、「公共世界の根本のなす正義という価値理念」や「基本的人権・市民的徳性・応答=責任」という倫理的規範が、どのように両立されるのかが、非常に疑問でした。

この点について、「公共哲学」的な世界において、特定の倫理的規範に同意できる者しか、対話に参加する資格を持たない、としか私には理解できませんでした。

ここが引っかかるのは、その規範の内容そのものよりは、技術者として上記のような問題意識でこれを見た場合、その規範を強制するようなシステムが実現可能であることです。

つまり、そのような倫理的規範に同意できない者をインターネットから占め出すことは、技術的には可能なことです。むしろ、過去のどのようなメディアよりも、そのような倫理的規範にもとづく対話の為のシステムを構築するのが容易であるということです。

ただ、そのようなシステムが多くのユーザに受けいれられるとも思えないし、まして、そのような「閉じた対話」が、インターネット全体の意思決定に関わるとしたら、多くの反感、反論を呼ぶに違いありません。

むしろ、私が期待していたのは、「理想的な対話のあり方について異なる意見を持つ者同士の対話はどのように成り立つのか?」という問題意識に対するヒントです。これは、掲示板のような開かれた対話のシステムを設計する場合に、プログラマーが具体的に突き当たる問題点です。

発言者の同一性をどのようにどこまで確保するか、発言の評価づけを誰の何の意見をもとに行なうか、発言の削除を誰がどういう基準で行なうべきか。こういう問題は、技術的にはどのような要求にも答えられますが、その選択肢が対話のあり方を制限し、その結果一定の参加者を排除することになります。

より多くの人が共有するような場を作ろうとするプログラマーは、このような倫理的基準についても、多様な選択を許すような方法がないものか模索しています。

そして、それは同時に公共哲学にとっても、最も大きな課題ではないかと思います。

ここについて、「公共哲学とは何か」では、特定の倫理的規範を掲げて「全員これに同意した上で議論に参加すべし」としているように見えて、それが非常に残念でした。特定の対話の方法を強いるのでは、私が懸念する上記のような問題について、世界的な幅広い合意を得るのは難しいのではないかと思います。

この点では、ルーマンの社会システム理論のような、合意とか全体性とか対話というものを自己言及的に哲学的考察の対象とするアプローチの方に、期待してしまいます。このような難解な思想が単純な規範的結論につながるとは思えないのですが、この種のアポリアを具体的な課題として実装していかなくてはいけない、インターネットに関わる技術者や事業者には、何らかの指針を示すことができるような気がします。

あるいはそれは、技術的な可能性とその技術の持つ社会的な含意を区別しない傾向のある技術者には、何らかの限界を論理的に示し、自分やシステムの潜在的な能力についての断念を強要するような形での、足かせをはめるような結論になるかもしれません。そのような哲学的な結論を一般に分かりやすい形で示すことが、ひとつの学問としての「公共哲学」に求められることではないでしょうか。

オープンソースと公共哲学

さて、技術者の立場から公共哲学に要望ばかり言ってきましたが、最後に、逆にプログラマとして公共哲学に貢献できる可能性についても述べておきます。

オープンソースは、多くの人の協力によって技術的に大きな成果を産んでいます。これは、公共哲学にとってもひとつの知的な情報源となる可能性を持っていると思います。

特に、「技術がからむ複雑な意思決定を多くの人の対話の中で行なう」という点で、そこで起こっていることを、ひとつの哲学的な原理として抽出できれば、他の分野にも応用できるものではないかと思います。特に、プログラマの集団のことなので見過ごされがちですが、多数のプログラマーが関わるプロジェクトでは、その専門知識のレベルはさまざまです。ですから、専門知識にバラツキがある多くの人が、複雑に関連する事項について同時に意思決定するという課題が、常にそこにあるのです。

そのような意味で、参加者の「文化的・歴史的多様性」を超えて、共同作業による成果を産んでいることに注目していただければと思います。

以下は、私がオープンソースについて、そのような観点を含めて書いた文章です。

また、次の文章は、オープンソースの政治的側面を論じているものです。

このような観点から、オープンソースは、公共哲学に対して、理念や方法論の供給源となる可能性を持っていると思います。