人間の不合理性を前提にした合理的な議論

svnseedさんのこの記事の最後が気になる。


結局、こういうスジ悪な見立てがはびこる根本的な原因は、世の中を政治的に見るクセがつきすぎてるからなんだろうな、と。相手が経済合理性よりも政治を優先させるだろう、とみんなが考えれば、それは結局実現してしまう。

ここで批判されている文章の問題は二つある。

  • 前提があいまいで論証が論理的でない
  • 経済合理性でなく政治的な発想を前提としている

実際、「政治的」な人が非論理的であるケースが多いので、それを一緒にして批判することは意味があると思うし、半分は納得する。しかし、このロジックをそのまま演繹していくと、ちょっと疑問のある結論が導かれてしまうような気もする。

もし、これが「政治的」で「論理的」だったら、どうなるだろうか。その場合は、それを読んだ人を「(経済合理性からはずれて)政治的な発想、行動」に導く力が強いわけで、


これは無知よりも恐ろしいことだと僕は思う

というsvnseedさんが言う「恐しさ」という属性が強くなる。そこで、なぜsvnseedさんが、そういう議論(の影響力)を危惧するかを自分なりに考えてみる。

もし、そういう政治的な議論に誘導されて経済合理的でない行動をするプレーヤーが増えると、(論理的、合理的な)経済学の法則が使えなくなってしまう。経済学的に解明できる原因がない所で、ドルやユーロが乱高下したりしてしまう。そういう思惑を制御するには、金利とか財政出動とか普通の経済政策が使えないので、普通の経済的な問題と比較して混乱を収拾することが難しくなる。

だから、現実的にはそういう言説が問題であることは理解できるのだが、これが意味することは次のようなことだ。

  • 経済合理的なプレーヤー主体の市場は法則がわかるので制御可能
  • 経済合理的でない(政治的な)プレーヤー主体の市場は既知の法則がなりたたないので制御できない
  • 制御可能になるように、解明されている法則の範囲で行動すべきである。

svnseedさんが、この一般化に同意するのかどうかはわからないが、合理的な主張が陥りやすいワナであるような気がする。ここには認識論的主張と規範的主張の微妙な混同があると思う。


どうして政治を後回しにして考えないのだろう。君たちは政治が好きすぎる。

長い記事の中で、ここだけに異論があるのだけど、実際、人間も人間の集団も合理的に行動しないことがたくさんあるので、政治(人間の非合理性を前提とした合理的な考察)を重視するのは問題ないと思う。問題なのは、適用領域を間違えることと内的な整合性のない議論をすることだ。

『絶望 断念 福音 映画』あとがき〜〈社会〉から〈世界〉への架け橋より


合理性にコミットするべき理由は合理的には与えられないし、近代にコミットするべき理由は近代的には与えられない。神学的に一般化すれば、〈社会〉を生きるべき根拠は、〈社会〉の中には論理的に存在し得ない

「合理性にコミットすることの優位を合理的に根拠づけること」をあきらめると、とたんに物事はややこしくなってしまうのだけど、それはしょうがないことだと私は思う。