バザールモデルの中の「モダン」性とその超克

私には解けない謎がひとつあります。そして、この謎は誰かがさんざん考えていることのような気がする。そこで「教えてエライ人」モードです。

「バザールモデル」は潤沢な在野の知を浪費する方法論です。つまり「唯一の正解」を求めない。少なくとも論理的、近代的な手続きによって、「唯一の正解」に到達しようとは思っていません。

しかし、一方で、理性や論理、実証性に頼っている面もある。非常に近代的な側面も持っています。この二面性があることがバザールモデルの長所でもあり欠点でもある。OSDという言葉とオープンソースという言葉を巡っての、今回の論争には、この二面性があらわれていると思います。

オープンソースという運動は、OSDという形の、客観的、価値中立的な定義を中核に持っている。それをオープンソースという「運動」的な側面、価値判断を含んだ言葉とつなげようとすることから軋轢が生まれてきます。

私は両者をつなげるべきだと思っています。「バザールモデル」が単なる野次馬の集合にならないのは、解釈のゆれがない原理をライセンスという形で持っているからだと、私は考えています。それは本質的に重要な所であって、譲れないと思っています。

特に、オープンソース(ソフトウエアの世界の中でのオープンソース)が、弱者であって一般的に認知されてない現状では、権力から自分を守る為に、合理性、客観性をよりどころとせざるを得ない。その原則をないがしろにしたら、負けてしまうという政治的な判断があります。

しかし、これは政治的な判断です。つまり「悪しきMS帝国が世界を侵略しようとしている。その悪の手から民衆を守るのだ」という世界観をもとにしていて、その世界観を他人に押しつけているわけです。もちろんこれはただの恣意的な思いこみではなくて、理論的な根拠があります(と自分では考えている)。OSDという基準に集約されたソフトウエアのライセンス体系が広まることが、大半のユーザにとって「良き結果」をもたらす、という論理的な思考を含んでいて、それは客観的に証明できると私は考えています。

そして、これが私の悩みなのですが、このような「バザールモデルがいい」という主張は、思想の言葉で言う「モダン」だと思います。「モダン」特有の独善性、硬直性、鈍感さを持っている。オープンソースが弱者である場合には、これらの側面がいい方に働きますが、もし、「バザールモデル」が社会を主導する原理として認知されてきたら、「モダン」的思考が一般的に持つ暴力性のようなものが問題になってくる。

塩崎さんが提示された問題は、深層にこの「バザールモデルのモダン的な暴力性」という問題を含んでいるような気がします。ですから、今後、形をかえて繰り返し問題となるように私には思えます。そこで、こういう所が得意な現代思想社会学のエライ人を召喚して、助けを求めようというのが、私のもくろみです。あるいは、車輪の再発明をしないように、過去に現れた論点を掘り起こしておきたいということです。

問題は、「合理的、近代的な原理を中核にして、多様性を許容する枠組みを作ろうとしている。これに対する、ポストモダン的な攻撃をかわす理屈はないか」ということです。民主主義という原理とその元での多様性、のような形で、過去に似た問題がありそうな気がします。

それを必要とする理由その1、政治的な理由。

ポストモダン的な考え方が生まれたひとつの動機が、「モダンとして権力」を解体する必要があったからだと思います。権力が自分の権力の根拠としてモダン的な原理を軸に暴走しはじめた時に、それを解体する論理としてポストモダンが生まれた。ですから、モダン=強者、ポストモダン=弱者という前提があるような気がします。

「バザールモデル」が一般に認知され、社会を主導する原理となったら、このような図式があてはまるので、厳重に「モダンとしての暴力性」を批判されるべきです。

しかし、現状はそこまでオープンソースは育ってない、今の時点でそれを言われたら(まさに昨日私が自爆自演しているように)、解体されてしまうのではないか。一時的でもいいから、(育ちあがって強者になるまでの間)これを留保する論理が欲しいということです。

それを必要とする理由その2、哲学的な理由。

「多様性の中核としての合理性の強制」というのは、いかにも哲学、思想のテーマとしてありそうな気がします。過去のエライ人がこれについてどんなことを考えていたのか興味があります。

それを必要とする理由その3、バザールモデルの理論的バックボーンとして

オープンソースが、民主主義や学級会と違うのは、OSDとかGPLとかリジッドな厳密な論理や、コンピュータ上で動くあいまいさのないルール(CVSmake test)を基盤としているからです。

もし、バザールモデルをソフトウエア以外に適用しようとした場合に、なんらかの形でこのような厳密性を持った中核を人為的に作らなくてはいけないと思います。その場合に、この問題が本質的な問題となってくるのではないか。

ということで、「おしえて、エライ人!」