中国版インターネット問題の難しさ

少し前のことだが、中国、漢字ベースの独自ドメインを作成--専門家はインターネットの分裂を懸念というニュースがあって、それを見た私は、2006/3/1は、インターネットの歴史に残る大事件が起きた日として記憶されるだろうと思った。

そして、その時たまたま私はブログのリニューアル中で、それを完了しないと簡単にはエントリを書けない状態だった。だから、これに乗り遅れてしまうと、かなり焦ったのだが、私の予想に反して、何ということもなく過ぎてしまった。

Googleの検閲はすぐにピンと来ても、DNSに関してはポカ〜ンという方も今や少なくないだろうが、実はこちらの方が「おおごと」なのである。

そうなんですよ、この事件は大変なことになる可能性があったのである。


実は、焦りながらも簡単に記事が書けなかった理由があって、実は私は、この問題のポイントであるルートDNSサーバというものの構築や運用の経験が無いのである。だから、「中国が別のルートDNSを立ち上げる」ということの、技術的な問題がもうひとつ理解できなかったのだ。

「なんだ、essaはふだん偉そうなことを言っていくせに、ルートDNSの運用経験もないのか。やっぱり、口先だけなんだなコイツは」などと喜んで、あちこちに言いふらしてはいけない。いや、別にしてもかまわないが、そんなことをすると恥をかくのはあなたの方だ。

ルートDNSサーバというのは、世界で13台しかない。各サーバに50人関係者がいるとしても、その分野に実務経験がある人は、世界で650人しかいない。だから、ルートDNSの経験がないことは当然のことなのだが(まあ、他にも経験無しにあらぬことを口走っていることは他にたくさんあるのだが)、これがこの問題の難しさを象徴していると思う。

WEB検閲を巡る議論は難しい。政治的に難しい。「言論の自由」等という言葉にビビってしまう人は参加できない。そして、同時に技術的にも細かく考えると難しい論点がいろいろあるのだが、とりあえず、技術的な問題は回避して議論に加わることはできる。検索結果の画面に特定のサイトが出てこない状態を思い浮かべればいいだけだ。

しかし、独自のルートDNSを掟破りで構築して、何が起こるか、何ができるか。それは、非常に微妙な問題だ。技術的に難しい問題がいくつもある。

ざっと関連エントリーを並べてみたが、技術者以外でこれを全部読み通せる人は少ないだろう。

革命の日々! さんが言うように、この問題にはルーティングの問題がからんでいて、ルーティングはDNSよりさらに難しい。特に、国全体のトラフィックが関わるところで何かアヤシゲなことをするには、理論的な問題だけでなく、負荷や信頼性の問題も含めて過去の経験から考えないと、できることとできないことの区別が難しい。

また、「要するに中国が別のインターネットを作るってことだろ」と割り切るのも早とちりだ。「別のインターネット」が欲しければ、中国から外に向けている回線を物理的に切ればいいだけで、それができれば中国政府も苦労はない。

「見せていけない」ものを見せないことが難しいのではなくて、「見せていいもの」を見せつつ「見せていけないもの」を隠すのが難しいのだ。中国政府が望んでいることはそれである。そして「見せていけないもの」を技術的に定義するのは難しく、それを実装することはさらに難しい。「見せていけないもの」は、特定のURLやポート番号に固定されてなくて常に動くので、それに追随できるシステムである必要がある。

結論から言えば、今回の「独自DNSルートサーバ」というアイディアは、(検閲という要件に対して)あまりコストパフォーマンスがよくない。それを構築することは大変で、それでできることは少なく、副作用は非常に大きい。だから、これは検閲目的ではなく、漢字ドメインを無料で手軽にやろうとしただけのように見える。その為には、別に掟破りをする必要はないのだが、どこかに勘違いがあって、無意味に独自のルートDNSという解に突っ走ってしまっただけのではないかと私は思う。

しかし、中国政府が、「必要とあらばインターネットで掟破りをする」という意思を見せたこと(CNET記事によれば真偽は不明だが)の長期的な意味は大きい。

インターネットは、中央に強制力が無くても機能するようにできている。世界中のサーバやルータの管理者が、さまざまなインターネットのルールに最低限でも従うのは、誰かの権威を認めていたり金で縛られていたり逮捕されるからではない。単に、それを守らないと損をするからだ。誰でもきまりを守らないとネットに接続できない。自分が損をしないために、エロサイトも自分のドメインをINTERNIC(から権限を移譲された各国独自の組織)に登録するし、スパマーも正式なSMTPプロトコルにのっとってスパムを送るのだ。

中国政府だって、「部分的に見せて部分的に隠す」ネット接続を維持するには、損得計算から言えば、きまりを守った法が得なはずである。だから、中国政府が検閲をするとしたら、長年かかって形成されたさまざまなネットの掟の中で行うはずだ。

世界中の技術者はそう思いこんでいたのだが、これが本当にそうなのか、今回の事件であらためてよく考えてみると、その思いこみには根拠が無いことに気がつかされた。少なくとも技術的な観点からだけでは判断できないところがある。

中国政府の損得がどこまで一般の損得から逸脱しているのか。スパマーの損得は一般から逸脱しているが、それはネットの掟破りに見合うほどは逸脱していない。中国政府の損得の逸脱もその範囲におさまるのか、そうでないのか。それは政治的に高度な難問であるが、それがルートDNSや上流でのルーティングという技術的な難問に直結しているのである。

私は、ネット検閲批判は一筋縄ではいかないという記事で、「シスコというルータのメーカーまで政治的な批判にさらされるのはどうか」と言ったのだが、実際、掟破りの副作用を正確に見積れるのはシスコの中の人ぐらいで、シスコの技術者と言えばおそらく政治的には非常にナイーブな人がほとんどではないかと思うし、そういう人が無邪気に中国政府の要件を着実に解決していったらマズイだろうが、これを批判するのは相当難しいよ。何か変なことをした時に、その政治的な意味と技術的な意味が両方わかる人がほとんどいなくて、どちらか一方がわかる人同士の対話がうまく進むとも思えない。ちなみに私はどっちもわかりません。