Web2.0の中の無知の知
朝日新聞に対論「ネット新時代 何もたらす 梅田望夫さん 西垣通さん」という記事が載ったそうだが、この二つの感想を読むと、なんとなく、よく見慣れた構図が繰り返されているように見える。
梅田ファンの多くは、こういう反論に食傷しているのではないかと思うが、それは別にWeb2.0や梅田さんを何が何でも礼賛したいわけではない。むしろ、梅田さんと釣り合うような批判的見解を求めていて、本当の意味での「対論」を見てから、どちらが正しいか自分なりに考えてみたいと思うのだけど、なかなかそれが見つからないという感覚だと思う。少くとも私はそう感じている。
ネットやシリコンバレーについての実践的知識で比較して梅田さんに釣り合う人というのは、基本的には業界関係者になるから、それでいて批判的な人というのは、見つけるのが難しい。私の望みは無理難題だろうか。
いや、そうではなくて、私が求めている「釣り合い」はもっと他の所にある。
そういうことを漠然と考えていて、「無知の知」というキーワードを思いついた。確かソクラテスが言ってたことだという漠然とした記憶を頼りにググってみると、
何も知らない点では共通だが、私は『自分が知らないということを知っている』という点で、その自覚のない彼らより賢いのだ
ソクラテスの思想全体の中でも中核となっている概念のようだ。
梅田さんに対して批判的な人は、あまりにも簡単に「インターネットというものを知ってるつもり」になっているような気がする。「知ってるつもり」が浅すぎるのだ。
インターネットの最前線では、常にアイディアが爆発している。アイディア一発で多くのブレークスルーが産まれている。アイディアとは、「知られていること」をいくつか組合せて並べかえると、全く予想しないものが生まれてくることだ。
だから、ネットに関わっていると、自分の「知っていること」について本当に自分が知っているという確信が得られない。たとえば、ブログ以前にHTMLやCMSを知っていた者にとっては、ブログの出現によって、HTMLやCMSについての自分の知識が何も変化してないことは自明のことだ。同時に、ブログが出現したことによる変化を自分が予想できなかったこともよくわかっている。
「ブログ以前に私はHTMLやHTTPを知っていたのか?」
我々はそう自分に問うことで、「無知の知」を得ることができる。「自分はHTMLについてよく知っていたけど、同時に何もわかっていなかった」という答を、自分の体験から来る確信を持って言うことができる。
その知識は、いろんな所に応用可能な一つの武器だ。それを応用することで「自分はブログについてよく知っていると同時に何もわかってない」「自分はWeb2.0についてよく知っていると同時に何もわかってない」ということを確信することができる。
私が共感するのは、梅田さんの先見性や幅広い視野だけではなく、そこから派生する「無知の知」ではないかと思う。梅田さんは自分が知らないことをよく知っている。私も自分が知らないことをよく知っているつもりだけど、梅田さんにはかなわないと思う。何故なら梅田さんの方が幅広くネットの最前線をよく知っているからだ。ネットやシリコンバレーに関する知見の差が「無知の知」のレベルの差につながっている。
もちろん、「無知の知」が「問題はあってもこれから我々の知らない何かの手段で解決されるはずだ」という楽観主義につながる必然性はない。逆に、「ネットの本当の恐しさを我々はまだまだ知らないのだ」と言えば、いくらでもネット批判論に使うことができる。相手が何を言っても「君がそういう風に断言できることが君の無知を表している」と言って梯子はずしゲームにしてしまえば、議論に負けることはない。
あるいは、「あなたも私もP2Pという技術の存在を知っていたのにWinnyを巡る馬鹿騒ぎについて何も予測できなかったではないか」と言えば、お互いにネットの未来について沈黙するしかない。
でも、「無知の知」とは、そういう退廃的なものではないはずだ。ソクラテスは確かに何かを知っていた。「無知の知」という実体はあるし、生産的に使うことは可能だと思う。というか、むしろ、ネットはソクラテス(レベルの人)のみが独占していたその領域に凡人がいくらかはアクセスできるようにするツールなのだ。ネットをちょっと使いこむことで、誰にでも自分の「無知」にアクセスできる。「あのサービスをこんな風に活用できるとは思ってもみなかった」「あのツールにこんな可能性があるとは気がつかなかった」「この領域でこんな技術が使えるとは予想してなかった」そういう経験を自分に嘘をつくことなくしっかり記憶することで、ネットによって人は賢くなれる。
ギークというのは、技術について人より理解しているわけではなく、ネットの中にあるこの「無知の知」へのアクセスが巧みな人たちだ。彼らは自分が発見した「無知の知」をユーザとシェアし、ユーザの中からソクラテスを引き出すことで、ユーザの自発的な貢献を集めるのである。ソクラテスは自分の無知を知っているから、常に自分の持っている知識や情報をシェアすることを選択する。そういうユーザの中のソクラテスを引き出すことが巧みな人をギークと呼ぶのである。
「衆愚」と言うなら、ソクラテスをうまく騙して扇動する手法を思いついてからにしてほしいと私は思う。もちろん、純粋なソクラテスはもう死刑にしてしまったので、「ソクラテス」と言うのは今では比喩でしかなく、実体としては人とソクラテスの混ぜものだ。しかも、人とソクラテスの混合比は1000:1なのかもしれないが、多くのナノ・ソクラテスはネットによって目覚めつつあるのだ。ソクラテスが「衆愚」に陥るとしたら、それはいくらかは自覚的な「衆愚」であり、各種Web2.0的サービスを駆使して自分たちの「衆愚」をよくモニタリングしている「衆愚」である。それをこれまでの「衆愚」と同じ枠組みで論じているのでは話にならない。
私がここに書いたロジックでは、Web2.0について批判する人は全部「無知の知」を知らない人になってしまう。だから詭弁のように見えるかもしれないが、それは私が、パーシャルな「無知の知」をよく知りそれに批判的な人を知らないからだ。そういう意味で、自分の書いていることがバランスを欠いているのは自覚しているつもりだ。だからこそ、私は梅田さんと釣り合う「対論」を求めているのだが、まだそれが得られてない。