ハーベイロードの仮定

痛快!憲法学のP205から


ケインズ経済学を批判する際によく言われる言葉として、「ハーベイ・ロードの仮定」という有名なキーワードがあります


ケインズは無意識のうちに「役人は無欲で、しかも正しい判断ができる」と仮定しているが、その仮定がいつも成り立つとはかぎらないというわけです。


ハーベイ・ロードとは、ケインズの生まれたケンブリッジの地名です。(中略)当時のイギリスの知識階級は、いい意味でのエリート意識つまり私欲を捨てて公共のために尽くすという意識が強かったから、ケインズは無意識のうちに「官僚が間違いを犯すわけがない」と考えたわけです。


しかし、はたして「ハーベイ・ロードの仮定」は今の日本に成り立っているか

公共工事、高率で割高価格通りに落札 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


1999〜2003年度の5年間に、発注者側の積算ミスで工事費が割高になったと指摘されたものが、少なくとも14件あった。


工事に必要な材料費などを積み上げて設定する予定価格に誤りがあるのに、それにつられるように、どの業者も予定価格に極めて近い価格で入札していた。


この事業の入札参加業者の一人は「それぞれ積算したら、たまたまそういう結果になっただけ」と話すが、会計検査院のある調査官は「予定価格が漏れていないと起こり得ない。調べた資料だけでは断定できないが、状況的に見て談合があったのではと疑いを持った」と話している。

mumurブログ:船橋図書館焚書事件の土橋悦子さんの本が不自然に大量にある件について

自ニュFさんにあったコメントから


図書館需要(税金)で成り立っているような本や出版社があるからなぁ。それらの表現の傾向なんかを調べたりすると面白いかもね。

右も左も税金まみれ。

こういう国で育った人には「官僚が正しいことをするわけがない」というケインズと逆の思い込みができちゃうでしょうね。こういう「たかりゲーム」に参加することを「公共」と言うのだと思っている人はいっぱいいて、そういう人の中からまだケインズのようなブリリアントな人は出てないので、明解な経済理論のような形にはできてないけど、そういう理論にならない理論のようなものが濃厚にあって、それを行動原理にしている人って結構いるでしょう。

そういう世界観においては、「公共」とはパワーゲームの別名のようなものになるから、「公共」っていう言葉が生理的に嫌いになる人が多くなるのも当然だ。

もちろん、ケインズだって、自分の回りのローカルな現象を普遍的な現象と思いこんで、そこから立派な理論を作りあげたのだから、「たかりゲーム」=「公共」理論だって、何らかの抽象化をすれば立派な経済理論なり、政治哲学なりに化ける可能性は充分あるかもしれない。

しかし、「たかりゲーム」=「公共」理論は、富の分配に関してはいっぱしのことが言えたとしても、富の源泉について何も説明できないのではないか?「たかりゲーム」=「公共」理論には、頭のいい人が常に無欲でいつまでも馬鹿どもに搾取されまくっていていくらでも税金の源泉となるという仮定がある。どんなに頭が良くてもそういう環境にいつまでも甘んずる人は馬鹿というのであって、結局、馬鹿には富は創出できない。

「富を創出する人は無欲で、しかも正しい判断ができない」という仮定は、いったいどの町のどこの通りで生まれたのだ?