強い学者

flores channelから引用。


「自己責任社会」の担い手は、金子の表現を借りれば「強い個人の仮定」に基づく個人と言える。経済領域における「強い個人」とは「短期だけでなく長期の将来をも合理的に見通して、かつ他者にかかわりなく自己利益だけを追求する『合理的経済人』」であり、政治領域におけるそれは「公民的モラルを身につけた『市民』」であり、「あるいは自ら信念体系をもち、互いに多元的価値を尊重しながら会話を繰り返す『会話的正義論』」にみられる個人である。

なるほど!。

こういう発想を原点としてスタートした経済学や社会学は、途中の道筋がどんなに客観的で論理的なものでも、導きだした結論の中に「幸せになりたけりゃ強い個人になれ」という微妙な主観の強制を含んでしまうわけですね。

メッセージとしてそれを言うのは自由だけど、それを客観的真理のように言うのはルール違反なのかも。

私は哲学とか物理学にもそういう意味で一種の強制を感じてしまうんです。あらゆる学問は、自分が前提としているものをもっと明確にすべきだと思います。

従来のように社会が学者をちょっとしか飼えなかった時代には、そういうこと言ってたらとても手が足りなくなってしまったんでしょうが、右を向いても左を向いてもブロガーだらけの今日このごろですから、そもそも系をいっぱい飼っておいてあらゆる学問を根底から洗い直してもまだ人が余るのではないかと思います。

問題は、そういう多方面からの厳しいチェックを受けても、精神的にも学問的にも負けずに、きちっと成果を出して主張できる「強い学者」がどれだけいるかですね。それとも私のこの主張が「学問をやりたければ強い学者であれ」という強制を含んでいるということかしら?