何が「崩壊」して階層が固定化しているのか?

上の記事のネタ元のmittyさんは、これを受けて教育と社会流動性について考察しておられます。

村上 龍氏の「教育の崩壊」という嘘は、この問題に関するかなり悲惨な現状についてのレポートとして読むこともできます。この謎めいたタイトルですが、村上氏は「崩壊しているものは何か?」と問うているわけです。つまり、「崩壊しているもの」を直視したくない人たちが、それを直視しないで逃げるためにドラエモンのポケットのように何でも収容できる「教育」というあいまいな言葉を使っていて、そのことがややこしい問題をさらにややこしくしてしまうのではないかという問題提起をしているのであって、こういうかたちで変な所にほとばしる村上氏の作家的感性については、「ほどほどにしておけよ」言いたい気持ちも無いと言えば嘘になるのでありますが、とにかく現場を見せるべく企画された一種のルポルタージュとしてはむしろ地味な労作であると私は思います。どうか、タイトルについてはあまり気にしないで読んでください。

ところで、そういうふうに何でもしょいこまされる「教育」という言葉ですが、「教育」は抽象的概念であるのでいくら無理難題を押しつけてもいいのですが、これを人格的に体現した「先生」という言葉にも同様に矛盾から逃げるための理想論を押しつける傾向があります。「先生」という言葉は、これを職業としている人たちがたくさんいるわけですから、これはよくない。

「親が先生に期待すること」ととらえるとうっかり看過しがちですが、自分の上司が自分の部下にこの10分の1でも無理難題を期待したら、私は結構怒ると思います。私としては、先生にも自分の部下にも「犯罪行為をしないこと」くらいは求めてしまいますが、それ以外は仕事が好きで何かひとつとりえがあれば充分だと思います。「崩壊しているもの」を少しでも直視しようとすれば、それくらいの度量は得られるものです。

そもそも、社員の担当業務や目標を明確に定義できない企業は大体だめです。「あれもこれも」と列挙して一切優先順序をつけられないトップは無能です。先生の業務や目標もきちんと定義されてないと思いますが、この場合、「トップ」は誰なんでしょうか?「崩壊」しているのは何なんでしょうか?