権威主義と全体主義に挟まれて絶望しない為には

先週の週末に、たまたま近くの図書館にあったハンナ・アーレント過去と未来の間を読んだんですが、さっぱりわかりませんでした(泣き笑い)。何言ってんのかわかんなくて半分くらい飛ばしていて、読んだというより眺めたという方が近いくらいなんですが、なんか、このオバサン、根性入ってるなあということだけはヒシヒシと感じました。意味わかんないけど、迫力というか凄みのある文章なんですね。

その中で、ひとつだけわかったのが「全体主義権威主義は違う」という話。我々は民主主義を基準にして考えるので「民主主義でないもの」は全部ひとまとめに考えがちなんですが、ナチスドイツに代表される全体主義権威主義は全然違う。

例えばナベツネさんの言動を見てると、アーレントの言う「権威主義」の意味がよくわかります。全体主義権威主義も、上の人が何かを押しつけてくることは同じですが、「権威」というものは下を縛るだけでなくて、上に立つ人も縛るんですね。

「金持ってるだけじゃだめだ」と、ナベツネさんはライブドア堀江社長を批判したそうですが、ナベツネさんの考えでは、金以外のプラスαを上に立つ人は持っている必要があるという意味だと思います。ナベツネさんは、下の言うことは聞かないで独断で何でも決めるのかもしれませんが、そのαには、彼も逆らえないということです。

たかが選手がオーナーと対等に口をきけるわけがない」という発言は、「オーナーが交渉の窓口になることはオーナーの権威を損なう」という意味ではないでしょうか。つまり、オーナーは権力(金)を持っているからオーナーなのではなくて、「権威」を持っていることがオーナーであることの正当な根拠になっている。オーナーは、一定の行動様式に従って行動して、オーナーの「権威」を損なうことが無いように注意しなくてはいけない。そして、新しくオーナーになろうとする者は、正当な手順を踏んでその「権威」を継承する手続きを取るべきだ。

このように、ナベツネさんは「権威」を最重視する価値観を持っていると見ると、彼の言動はわかりやすく、首尾一貫しているように思えてきます。

ナベツネさんは民主的ではなく独裁的ですが、彼個人の思うがままに巨人やプロ野球を好き勝手にいじれるのではなく、彼が認める「権威」としてのありかたに、彼自身縛られているのです。それを背景にしていることが、彼の権力の源泉であると彼自身が考えている。


命令する者と服従する者との権威に基づく関係は、共通の理性にもまた命令者の権力にも基づかない。両者が共有するのは、ヒエラルキーそのものである。両者が承認するのは、このヒエラルキーの正しさと正統性であり、両者ともにこのヒエラルキーのうちで前もって決められた安定した場所を占めている(P125)

「YahooBBが切れやすい」とか「YahooBBから顧客情報流出」等と聞くと、私は心のどこかで「やっぱりな」という感覚を持ってしまいます。ソフトバンクライブドアのような経団連的な秩序からハミ出した企業は、一方においてその革新性が魅力的に映りますが、同じ革新性の中に一種のうさんくささみたいなものを感じてしまいます。

これを読んでいる人が、その感覚を私と共有しているかどうかはわかりませんが、私自身は、ナベツネさんが尊重している「ヒエラルキー」の感覚を、自分が部分的には共有しているのを感じます。だから、自分の中で視点をちょっとだけ変えると、ナベツネさんが尊重しているものも見えてきます。

アーレントは、このような意味での「権威主義」を「全体主義」と区別します。


全体主義のシステムが証明したのは、いかなる仮説に基づいても行為は為されうること、しかも、その仮説に基づいて実際に首尾一貫した行為が為されるなら、どの仮説であれ真となり、現実的、事実的なリアリティとなることであった(P117)

ヒトラーユダヤ人にしたことと、ナベツネさんがプロ野球全体や読売グループに対してなし得ることはぜんぜん違う、前者はアーレントの言葉を借りれば「驚くべき恣意性」、後者はナベツネさんの言葉を借りれば「金持ってるだけじゃだめだ」

そして、言われてみればあたり前のこの事実を無視して、我々が「民主主義VS(全体主義とか権威主義)」という図式でとらえがちなのはなぜか。そこが非常に難解なとこで私は勘違いしてるかもしれませんが、アーレントは、どうも我々が民主主義の本質を理解してないからだと言っているような気がします。アーレントは民主主義というものに危うさを見ていて「(民主主義とか全体主義)VS権威主義」という図式を描いているような気がします。


権威の崩壊は、全体主義の体制ないし運動そのものが直接もたらしたものではなかった。むしろ、政党制度が威信を失い、もはや政府の権威が認められないような一般的な政治的-社会的雰囲気に乗ずるには、体制であるとともに運動でもある形式をとる全体主義が最も適っていると思われたのである。(P124)

「権威の崩壊が民主主義とともに全体主義を可能にした」と言っているような気がします。

Moleskin Diaryのマフィア的全体主義の脅威


ロシアとアメリカは似たもの同士になりつつある.ロシアの方が少し過激なだけだ.

とありますが、確かに最近のアメリカはおかしくてロシアで復活しつつある全体主義に近づいていると私も思います。そしてこういう今の状況をアーレントの深い思索は見通していたように感じます。

民主主義という制度は根本に何か矛盾か幻想のようなものを持っていて、それに対してストッパーとなる「権威」を我々は非可逆的に喪失している。アメリカは民主主義を失なうことで全体主義になりつつあるのではなく、民主主義の可能性と危うさを同時に開花させたことで全体主義になりつつある。

ナベツネは明らかに時代錯誤だけど、それを拒否すると「驚くべき恣意性」を持った小泉さんが待っている。出口はなかなか見えてきません。実は、『意地でも絶望しないよコンテスト』の本当の意味はそういうことで、ハンナ・アーレントがそれに最初に参加した人なのかもしれません。